日本の難読地名と由来~青森編~
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日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として残っているのを紹介しています。
目次の青森県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
住所では残ってないのを紹介しています。
青森県の難読地名と由来
後萢(うしろやち)
住所
【由来】
外ケ浜の萢(谷地、湿地帯)の後方(奥地)であることによる。
王余魚沢(かれいざわ)
住所
【由来】
古くは「かるいざわ」ともいい、
饗沢・餉沢・軽井沢・鰈沢とも書いた。
※由来は諸説あり。
1.王余魚は中国の故事に出てくる
「王が鰈(カレイ)を食べた時、半身を余した魚」
から付けられたとされる。
浪岡城を築いた北畠顕義(あきよし)を王になぞらえ、
北畠氏がカレイを食べて集落を開いたという説。
2.余魚沢は食事を取って休憩する場所
「餉(かれい)沢」や馬の荷物を下ろす場所「軽井沢」から変化して大豆坂(まめさか)街道(現在の空港道路)の
宿場だったことに由来するという説
※上記は王余魚沢の由来だが、下記は「かれい」の意味
3.鉄の産出の意
4.干し飯つまり旅人が昼餉をとる意
5.物を背負うの意
6.渓流の細路の意
【地名のハナシ】王余魚沢(青森)…城主がカレイを食べて集落が開かれた? – 産経ニュース
狼森(おいのもり)
住所
【由来】
昔、狼が住む森があったことから来てる。
九艘泊(くそうどまり)
住所
【由来】
義経が蝦夷地に渡る際、九艘の船で停泊した事に因み
名付けられた。
キャンピングカーで放浪の旅 Ⅱ|脇野沢九艘泊 下北半島南岸の道 ~むつ市~ 他 (2012/10/9)
三厩(みんまや)
住所
【由来】
(省略版)
東北へと逃れた源義経が岩窟にいた3頭の駿馬を得て
北海道へ渡ったという伝説に基づく地名とされている。
(詳細版)
東北のこの地へと逃れた義経は、北海道へ渡ろうにも、
荒れ狂う津軽海峡を前にわたることが出来ない。
そこで、日頃身につけていた観音像を
波打ちぎわの岩の上に置き、海上平安の祈願を込めた。
三日三晩一心に普門品経を唱え続けると、暁の頃、
長い杖を手にした白衣白髪の老人が姿を現し義経に
告げた。
「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし竜馬をつかわそう。
これに乗り海を渡るべし」
これぞ観世音のお告げと義経は感涙し、感謝の祈りを
捧げた。
やがて岩から降り、近くの岩窟の近くへ来ると
馬のいななきが聞こえ、中を覗くと
そこには見事な駿馬が三頭つながれていた。
振り返って海を眺めると、あの荒れ狂っていた海が
いつのまにか嘘のように静かになっていた。
こうして義経一行はこの駿馬にまたがり、無事に海峡を
渡ることが出来た。
この岩窟を厩石(まやいし)、この地を三馬屋(みうまや)と呼び、後に三厩と呼ぶようになりました。
義経北行伝説の地・三厩(みんまや) – 風にのって – Yahoo!ブログ
驫木(とどろき)
住所
【由来】※諸説あり。
1.花山天皇が譲位後この地を通過した際に、徒者の
馬3頭が暴れ出したのを見て、斗斗口木を驫木にせよと
いわれて改めたという伝説による説。
2.元々「驫木」は周辺の集落名で、由来は
波の音・瀬の音が轟き、3頭の馬も驚いたという説。
犬落瀬(いぬおとせ)
住所
【由来】※諸説あり。
1.(簡略版)
いじわるなおばあさんが犬を相坂川に沈めたことから
犬落瀬と呼ばれるようになった説。
(詳細版)
川下の正直おじいさん
昔、昔、相坂川の川上に意地悪なおじいさんとおばあさんが、そして川下には正直なおじいさんとおばあさんが
住んでいました。
ある日、川上のおじいさんと川下のおじいさんは、
カゴを持って川へ、魚をとりにいきました。
ところが、魚が全然とれなかった川上のおじいさんは、
こっそりと川下のおじいさんのカゴから、魚をとっては
知らんぷりをして帰りました。
川下のおじいさんは、そのことを知っていましたが、
魚が全然とれなかった川上のおじいさんがかわいそうに
思い、何も言いませんでした。
しばらくして、川下のおじいさんが、いつものように、
魚とりをしてカゴを引き上げてみると、さかなの代わりに子犬が一匹入っていました。
喜んだ川下のおじいさんは、「シロ」と名付けて大切に
育てました。
子犬だったシロもだんだん大きくなり、とうとう、川下のおじいさんを乗せて柴山峠の山に薪をとりに行くほどに
なりました。
シロが
「あっちの山の兎ッコこ~い。こっちの山の兎ッコこ~い。」
とほえると、あっちの山からもこっちの山からも
たくさんの兎がピョンピョン跳んできます。
川下のおじいさんとおばあさんは兎汁にして食べました。
この話を聞いて、川上の意地悪なおじいさんは
嫌がるシロの背中に無理やり乗って、山へ行きました。
すると、シロは
「あっちの山のアブ(蜂)ッコこ~い。こっちの山の
アブッコこ~い。」
とほえるではありませんか。
たちまち真ッ黒にかたまったアブの群れが飛んできて
川上のおじいさんは、刺されてしまいました。
これを知った川上のおばあさんは、怒ってシロを相坂川に沈め、
おぼれさせて殺し、畑に埋めました。
このことから、この一帯を犬が落ちた川(瀬)で
「犬落瀬」と呼ぶようになったということです。
このことを知った川下のおじいさんは、悲しんで、
シロが埋められた畑に行くと、一本の木が生えていました。
川下のおじいさんは、それを切って、なにげなく振って
みると、米や黄金がザクザクと出てきます。
この話を聞いて、川上のおじいさんは、自分もまねを
してみようと、川下のおじいさんからその木を借りてきて振ってみると、今度は汚いものがドンドン出てきました。
怒った川上のおじいさんは、その木を焼いてしまい
ました。
川下のおじいさんは、かわいいシロのかたみに、
その灰をもらってきました。
ちょうどその時、鶴喰のあたりで鶴が空を飛んでいたので、その鶴の群れにむかって
「鶴の目に入れ、鶴の目に入れ」
と言って灰を投げると、鶴はバタバタと落ちてきました。
川下のおじいさんとおばあさんは鶴鍋にして食べました。
それ以来この一帯を「鶴喰」と呼ぶようになったということです。
そこで、また、川上のおじいさんは、自分もまねをして
みようと、川下のおじいさんからその灰を借りてきて、
鶴喰のモクゲンジの大木の枝に登り、灰をまいて
みました。
すると灰が目のなかに入って、木の下で見ていた
川上のおばあさんの上に落ちてきて、ふたりとも大けがをしてしまいました。
それからは、川上のおじいさんとおばあさんは意地悪を
しなくなったということです。
2.(簡略版)
長慶天皇が相坂川で溺死した犬を憐れんで、
「犬落瀬の里」と名付けた説。
(詳細版)
長慶天皇潜幸伝説
長慶天皇とは、皇統第98代、南朝第三代の天皇である。
長慶天皇は弘和3年(1383年)
南朝最後の天皇となる弟の後亀山天皇に譲位し、そのころはすでに弱まっていた、南朝の勢力を挽回するため、
ひそかに東北地方へやって来たといわれている。
六戸の天皇山には若宮八幡宮という神社があり、
長慶天皇を祭神として祀っている。
同神社の古文書によると、
「奥州へ潜幸した長慶天皇は、根城南部氏を頼り、南朝の勢力をもり返そうと南部地方へやって来た。
しかし、北朝方に知られたため、一旦、津軽地方へ逃れ、
また、南部の六戸地方へ戻って来た」
というのである。
更に、六戸町中央に犬落瀬という地名がある。
ここは長慶天皇が六戸郷の里に入った時、1匹の白い犬が
里の川(相坂川)で溺死してしまう。
天皇は、この犬を哀れみ、「犬落瀬の里」と命名したとも伝えられている。
3.六戸町犬落瀬の若宮山 光昌寺縁起によれば、
当山の開基吉祥は大中大夫といって讃岐国の人だそうです。
この方が村に来たとき川原で寝ていた猪を獲ろうと矢を射たところ、猪は立ちあがり走り出したので追いかけたが
若宮八幡宮近くで見失ってしまった。
大中大夫が猪を追いかけた川原であることから、「猪追瀬(いのおうせ)」と呼んだのが「犬落瀬」の地名の由来だと伝えているとされる。
岩手県上北郡六戸町犬落瀬という住所の「犬落瀬」について知りたいの… – Yahoo!知恵袋
易国間(いこくま)
住所
【由来】
元々は湯の沢と呼ばれていましたが、康正2年(1456)頃に、
下北で後に蠣崎戦争と呼ばれる
蠣崎蔵人と根城(八戸)南部氏の戦いがありました。
この時、蠣崎側の兵として、北海道や樺太、
中国大陸から外国の傭兵部隊が着船しました。
異国の船が入る湊から、異国間という地名となりました。
江戸時代に入り、盛岡藩の10代目藩主・南部利敬(1782〜1820年)が
領内巡視で異国間を訪れました。
その際に、
「異国の異は穏やかならず、易に改めるように」
と仰せられ、それ以来、易国間になったとされます。
青森県の歴史話 – 下北の地名の由来〜易国間〜… | Facebook
尻労(しつかり)
住所
【由来】
アイヌ語のシリ(sir「地面、土地、山」)・
ト゜カリ(tukari「……の手前」)で「山の手前」という意味。
田子(たっこ)
住所
【由来】
田子はアイヌ語の「タプコプ」から来ており、
意味は「小高い丘」。
奥戸(おこっぺ)
住所
青森県下北郡大間町奥戸
【由来】
アイヌ語の「オ」 (川尻)・「ウコッ」 (くっつく) ・「ペ」 (場所 )で意味は「川尻 で二つの川 が 合 流している所 」 。
奥戸ではおこっぺ 大川目と小川目という二つの川が、
海岸付近で合流している。
北方世界の中の青森県 参照
番外編
馬門温泉(まかどおんせん)
住所
【由来】※アイヌ語とされるが、意味は確たるものではない。
1.アイヌ語の「マカ(開く)」と「ト(湖水)」される。
2.アイヌ語の「マカントゥ」で、意味は「山へ登る口の沼」される。
馬門温泉の源泉 アラ・ハバキの「道の奥」廻り/ウェブリブログ
四戸(しのへ)
住所
【由来】※諸説あり。
1.馬の木戸(きど)説
鎌倉時代、甲斐の国(山梨県)から糠部(ぬかのぶ)という
地に南部氏が移ってきました。
南部氏は軍馬の生産に力を注ぎ、領内の各地に牧場を開設し、
その近くに集落がつくられました。
その集落に付けられた名前が、数字と戸で構成されており、
そのまま地名になったとする説。
2.柵戸(きのへ)説
一戸から七戸までの町村の距離はおよそ20㎞の間隔で続いおり、
それは軍隊が1日に移動往復できる距離だと言われています。
そのため、これらの地名は奈良平安時代に、蝦夷征伐のために
北奥の地にやってきた中央の進駐軍の駐屯基地であったと
指摘する人もいます。
進駐軍は自給自足のために、ベースキャンプの周辺に
柵を巡らして食糧を生産しながら北上を続けて来ました。
この柵のことを柵戸と呼び、これに番号を付けたのが、
地名の由来になったという説です。
3.四戸(しのへ)説
平安時代後期に糠部郡(ぬかのぶぐん)が置かれ、
郡の中が9つの地区(一戸(いちのへ)・二戸(にのへ)・三戸(さんのへ)・
五戸(ごのへ)・六戸(ろくのへ)・七戸(しちのへ)・八戸(はちのへ)・
九戸(くのへ))
に分けられたが、四戸だけ地名として残っていない。
現在、四戸の地名は確認できないが、八戸市の
「櫛引(くしひき)」辺りがかつて「四戸」
だったのではないかと推測されている。
理由としては、この地にある「櫛引八幡宮」が
かつては「四戸八幡宮」という名称だったことが
分かっているから、とされます。
四戸の範囲としては櫛引、また旧南郷村、旧名川町、旧福地村の辺りにあり、地域が細長く為政者にとっては管理しにくかったという話もあります。
江戸時代初期に盛岡藩が行政区分を変更する際になくなったとされます。
青森県の歴史話 – 戸(へ)の付く地名の由来~一戸から九戸まで~… | Facebook
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