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日本の難読地名と由来~群馬編~

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日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として残っているのを紹介しています。

群馬県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
住所に残ってないのや温泉の由来などを紹介しています。

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群馬県の難読地名と由来

橳島(ぬでじま)

住所

群馬県前橋市橳島

【由来】サイトによって多少違うのでどちらも掲載。

1.地元では豊城入彦命が東征した時、「ぬるでの木」で采配を振って
指揮し大勝を得たので、「ぬるで」に
「勝軍木」の文字を付けた。

それにちなんで、この土地を「勝軍木(ぬるで)島」と
呼び、
これを短くして「橳島」とした。

なお、「ぬで」は「白膠木(ヌルデ)」の略称。

2.橳島の由来 

むかし、武士同士がけんかした。負けたほうの武士が
ここへ逃げてきた。

そのころ、ここが島になっていた。
その武士の持っていた軍配の柄がぶっきられていた。

それで、山の中へ入ってヌ ルデという木をとって柄に
つけた。

そしたら、追っ手がやってきた。
それでまたこの武士たちは戦った。

ヌルデの柄をつけた軍配で指揮して残ったら、今度は、
はじめに
負けた方の武士が勝った。

ヌルデの柄をつけた軍配で勝つことができた。
そこが島であったとい うので、そこの地名を、ヌルデとよんだ。

ところが、あとになって、いつのまにか、ヌデジマというように
なったのだという。

ヌルデの木のおかげで戦に勝ったので、橳という字とし、

それをヌルデ(ヌデ) とよんだものという。

 ぬで島 – Wikipedia

「橳」の異体字に関する一考察 参照

女屋(おなや)

住所

群馬県前橋市女屋町

【由来】諸説あり。

1.前九年の役の帰路、源義家八幡太郎義家)の軍勢が

この地にしばし留まった。

兵士たちを目当てに女二人が酒屋を開いて
たいそう賑わった。

女酒屋を女屋と呼ぶようになり、地名にもなったという。

2.上杉氏の末孫の本間某の娘二人が、
この付近で
女酒屋を開き、その名は近郷近在まで広まった。

前橋市の坂-2: 坂道散歩

檜物町(ひものちょう)

住所

群馬県高崎市檜物町

【由来】


「檜物」とは、檜(ひのき)や松などから薄く削り取ったものを曲げて作る「曲げ物」のことで、当時、食器や
勝手用品として
かかせないものでした。

町名は檜物師という、「檜物」を作る職人が

多く住んでいたことから命名された。

http://www.npogunma.net/shouto-takasaki/district/2_walk/1_chimei_05na_ma.html

間野谷(あいのや)

住所

群馬県伊勢崎市間野谷町

【由来】

北と南にそれぞれ部落があり、この北と南の野の
出合う所の谷という
意味が由来。

マーチィ’s ROOM – 群馬県 参照

八斗島(やったじま)

住所

群馬県伊勢崎市八斗島町

【由来】

【簡略版】

境野八斗兵衛宗澄が稗島と呼ばれた所を開拓し、当時の
領主に
謙譲したところ、稗島は村に格上げとなり、
開拓した里長である
八斗兵衛宗澄の顕彰の意を含めて
八斗島と名づけられた。

【詳細】(境野家由来之碑)

桓武天皇の子の平城天皇の子孫の大江音人の子孫の
大江朝臣廣元の後裔の大江主水正吉澄が

境野と始称し、境野家の元祖となりました。

その子で、那波城主小姓組頭の境野隼人宗廣の末子
境野八斗兵衛宗澄は、仕えていた那波城主が
天正十八年の「奥州九戸の戦い」(注1)で討ち死にしたため帰農しました。

境野八斗兵衛は利根川と烏川の合流点に近い中州草原地で
稗島と呼ばれた所を開拓し、新しく領主となった

酒井雅楽頭忠清(注2)に慶長六年に差し出したところ、
稗島は村に格上げとなり、開拓した里長である
八斗兵衛宗澄の顕彰の意を含めて八斗島と
名づけられました。


これは今から400年前のことである。


(注1)九戸政実の乱」は、天正18年ではなく、天正19(1591)年に、南部氏の親族にして家臣団の1人で
あった九戸政実が、豊臣秀吉による
「奥州仕置」に反旗を翻し、本拠地の九戸城(岩手県二戸市)に篭城を敢行した
ようです。 

(注2)
酒井家と那波藩について調べたところ、九戸の乱(1591)で討ち死にした
那波氏のあとにできた那波藩の初代藩主は松平家乗ですが、家乗は慶長6年(1601)に美濃国岩村藩に加増移封となりました。

その後慶長6年(1602)に新しく那波城主となったのは

武蔵国川越藩から来た酒井忠世です。

八斗兵衛は五十嵐無兵衛と共に五社稲荷神社を祀った
ところ、
衆人が集まり現在の八斗島町となりました。

八斗兵衛の次男庄治吉隆は、九戸の戦いで滅んだ

那波城主一族を弔うため出家し、伊勢崎の同聚院住職と
なりました。

その後、福井県大本山永平寺三十二世(三十三世)大和尚
(勅特賜覚海智圓禅師山陰徹翁大和尚)となり、
元禄十三年に八十二歳で卒しました。

山陰徹翁大和尚は、寛永・元禄の年代に
徳川光圀に請われ、参禅の師に応じました。


忠清が雅楽頭(うたのかみ)の職についたのは慶長12年(1607)であり、忠清が那波城主を継いだのは寛永14年(1637)年なので、八斗兵衛さんが開拓地を差し出した
当時の藩主は、忠清ではなく、
おそらく酒井忠世だと
思われます。

八斗島の八斗兵衛さん – 伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

本動堂(もとゆるぎどう)

住所

群馬県藤岡市本動堂

【由来】

仁治元年(1240年)夏4月、武蔵国の住人、
津戸三郎為守が
木曽の郷戸の駅に泊まり、その夜
不思議な夢を見た。

手につぼみのハスを持ち、身には陣羽織をまとい、足にはかぶとをはいた、姿のかわった聖者が、為守に向かって、


「おまえ、あすになったならば、われを東路に連れて参れ。
縁のある地に行けば、必ず重くなるであろう」

と申された。

目が覚めてから、不思議なことに思って、近くのきこりに

夢の話をしたところ、きこりは、

「和語坂の観音様は巴御膳の守本尊でございまして、
夢に現われたとおりでございます」

と答えた。

為守は、霊夢のとおりであるので、さっそく尊像を背負い

東国に向かって下ったのである。

どこが縁ある土地であろうかと鎌倉街道に下り、上野国緑埜郡鮭塚
(社家塚)の原まで来たところ、尊像は大きな
岩のように重くなった。

そこで、鮭塚に寺を建て尊像を安置した。

これが本動堂(もとゆるぎどう)の始まりである。

為守はずっと以前建久6年(1195年)3月22日に

法然上人の法弟となって、尊願法師といっていたので
ある。

この聖観音は霊験があらたかであって、例話は非常に
多い。


ある年、春から秋になるまで日照りが続いて、田畑は
ほとんど
枯れ野のようになってしまった。

近郷の農夫たちは、いたたまれなくなって、お堂をとり
巻いて皆一心に


「雨を降らしめたまえ」

と尊像に祈ったのである。真心はついに仏に通じた。

ぐらぐらとお堂は揺れ、その音は鏑矢(かぶらや)を射るようであり、
まさに「甘露の法雨」である。

このために飢えにも、渇(かわ)きにも苦しむことは
なかった。

このことがあってから、当時の人々は、「動堂本尊」と呼び、
この土地を動堂村(ゆるぎどうむら)というように
なったのである。

それから数代を経過して、紫衣を賜った高僧幡隋上人が
通行され、
観音の霊験や尊願法師の旧跡をしのび、何日間もありがたいお経の講話をされ、近郷近在の男も女も
喜んで拝聴するのであった。

草木もなびくと、たとえられようか。


このころ、藤岡の城主は芦田修理太夫幸正であり、
上人に深く帰依しておった。

天正19年(1591年)に当初あった場所から南方に
2.5㎞離れた、
藤岡に寺地や黄金を寄付して、尊像も
お堂もすっかり移したのである。

これが現在(古桜町)の藤岡山尊願院一行寺である。


そして寺の東西の通りを動堂通りと称し、初めに尊像を
安置した動堂村に「もと」をつけて、本動堂
(もとゆるぎどう)と呼ぶようになった。

本動堂の縁起 ( 群馬県 ) – 南八幡の案内人 – Yahoo!ブログ

神流(かんな)

住所

群馬県多野郡神流町

【由来】町を流れる神流川に由来する。
神流川の由来については諸説ある。


1. 神(カム)の川が神名に転じたことに由来している。

感納川、甘奈とも綴られ、古くはカミノ川といわれた。


というのは、武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から
流れる川の意と言われている。

2.髪長川(廻国雑記)・賀美野川(川越記)などとも
書く。


川名の由来は、カンナ=鉄穴(かんな)の意で、
砂鉄の採集地に与えられた名であるという。

また、伝承によると、日本武尊が上流で弟橘姫の遺髪を流したので、
髪流川と呼ばれるようになったという。

3.原始的製鉄法による鉄穴(カンナ)で砂鉄と木炭と
を交互に
粘土製の炉に入れて焙焼する法。

「かんな」川の流域は製炭用の原木に満ちているので、
この名があるのであろう。

4.神流川は緑野郡(群馬県にあった郡)賀茂郷の奥より流れ出るため、

カモノカワ、カムノカワ、カンナと転訛した可能性。

日本の川 – 関東 – 神流川 – 国土交通省水管理・国土保全局

神流川周辺の「神」地名-2 | おぢさんの覚え書き – 楽天ブログ

神流川周辺の「神」地名-3 | おぢさんの覚え書き – 楽天ブログ

 

 魚尾(よのお)

住所

群馬県多野郡神流町魚尾

【由来】

かつて日本武尊ヤマトタケルノミコト)が東征の途中、空腹と疲れで神流川の真ん中に座っている「丸岩」と
呼ばれる奇岩付近で休んでいた際、村人が献上した麦飯と鮎を大いに喜んで魚の尾まで食べ

「この地を魚尾と称すべし」

と言われた伝説によるもの。

自衛隊群馬地方協力本部:本部長の群馬紀行

乙父(おっち)

住所

群馬県多野郡上野村乙父

【由来】

木曽義仲の四天王、今井四郎兼平の遺児が郎党と乳母に
付き添われて当地にたどり着いて住みつき乳母が乙母へ、郎党(男子)が乙父に土着したことによるといわれる。

また一族が落人として逃れて来た地が乙父であり、
お供として来た者の住みついた地が乙母であるとも
伝承される。

乙父・乙母ともに今井姓が多い。

「乙父」の地名の由来

乙母(おとも)

住所

群馬県多野郡上野村乙母

【由来】

木曽義仲の四天王、今井四郎兼平の遺児が郎党と乳母に
付き添われて、当地にたどりつき住みついたという伝説がある。

郎党の住んだところが乙父(おっち)、乳母の住んだところが乙母であるといわれる。

乙母・乙父には今井姓が多い。

また、オトモは川が乙の字なりに曲っているところを
指したという説もある。

さらに、アイヌ語説もあるが、いずれも定かではない。

「乙母」の地名の由来

嬬恋(つまごい)

住所

群馬県吾妻郡嬬恋村

【由来】

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の東征中に、海の神の怒りを静めるために
愛妻「弟橘姫(おとたちばなひめ)」が海に身を
投じました。

その東征の帰路、碓日坂(今の鳥居峠)にお立ちになり、亡き妻を追慕のあまり「吾嬬者耶(あづまはや)」
(ああ、わが妻よ、恋しい)とお嘆きになって
妻をいとおしまれたという故事にちなんで
嬬恋村と名付けられた。

嬬恋村紹介

邑楽(おうら)

住所

群馬県邑楽郡邑楽町

【由来】諸説あり。

1.邑楽(おうら)」は、古くは
「於波良岐(おはらぎ)」。

茨城と同義で、「オ(接頭語)・ハラ(原)・ギ
(場所を示す接尾語)」
→「オフラ」→「オウラ」と転じた説。

2.野原に多くの木が茂っていたことから

「オハラギ(大原木)」とする説。

3.「オハ(崖地)・ラ・ギ(場所を示す接尾語)」の
意とする説。

4.「開墾地」の意味であるオホアラキから来ていると
いう説。

邑楽

邑楽町|群馬県

鶉(うずら

住所

群馬県邑楽郡邑楽町

【由来】諸説あり。

1.建久年間、足利義兼が鎌倉から足利へ向かう途中
鶉を捕らえさせ黄金の指籠に飼ったが、夢のお告げで放鳥し、のちに高い地位を得たといういい伝えがある。

地名はこのいい伝えにちなむ。

2.足利尊氏が当地で雉狩りを行った際に、鶉の雛鳥を
捕獲して金の鳥籠に入れて持ち帰ったことからきているとされる。

関東地方の難読地名一覧 – Wikipedia

自衛隊群馬地方協力本部:本部長の群馬紀行

狸塚(むじなづか)

住所

群馬県邑楽郡邑楽町狸塚

【由来】諸説ある。

由来の前にタヌキとムジナは動物学的には同じとされています。
根拠となった事件。

たぬき・むじな事件 – Wikipedia

ここから狸塚の由来

1.狸塚にはタヌキが塚に穴を あけて住んでいたので
「狸塚」と呼ぶようになったとしています。

しかし、タヌキはつい最近まで人家に近い山林にはどこにも住んでいましたから、あまりあてになりません。
(サイトによっては有力とされる)

2.こんな話があります。集落の人家の雨戸を決まって
たたく者がいました。

家の人が出てみると誰もいません。

これはきっとタヌキのいたずらだろうということになり、若者たちが申し合わせて、何者かが雨戸をたたく時刻に
待ち伏せをしました。

すると、タヌキが出てきて尻尾で雨戸をたたいています。
若者たちは一斉にタヌキに飛び掛かりました。

タヌキはとっさに、近くの阿弥陀堂の中に逃げ込んで
しまいました。

御堂には本尊様が安置してありますが、なんとまったく
同じ阿弥陀様が二体になってしまいました。

そこで若者たちは、タヌキをいぶり出すことにしました。

始めはどっちがタヌキか、まったく分かりませんでしたが、そのうち煙たくてタヌキがむせび出しました。

そこで、若者たちは「こん畜生」とばかりにどっと押し寄せて、袋だたきにして殺してしまいました。

村人はタヌキのたたりを恐れて高台に埋め、 ムジナ大権現と書いた墓標を建てて、ねんごろに供養を
したといいます。

この高台の塚を村人は「むじなつか」と呼んだので、
これが地名になったといいます。

3.狸塚には、足利から上五箇の渡しを渡って
武蔵国に通ずる道がありました。

ある年、都の人がこの道に差しかかりましたが、長い旅で
疲れ果てていたようです。

村人は 気の毒に思い、丁寧に介抱してあげましたが、旅人の病気は良くならず、死んでしまいました。

何でもその方は貴(とうと)いお人 だったといいます。
村人は村の高台に立派な塚を作って埋葬しました。

貴いお人の塚なので、人々 は貴(むち)の塚 と
呼びました。

ちなみに、貴は神や人を敬っていう古代の名詞で、村人は貴の塚をいつか「貴(むち)な塚」と呼び、やがて
「むぢなつか」と 転化しました。

そして、その人を貴ノ宮 社(木ノ宮社)に祭りました。

あすへひとこと – 邑楽町 参照

古代の邑楽町付観音霊場 – ポポロの広場

群馬県邑楽町の「狸塚(むじなづか)」の名前の由来を教えて下さい。|質問・相談が会員登録不要のQ&AサイトSooda!(ソーダ)

 

番外編

 

黒保根村(くろほねむら)

住所 

廃村 現在は黒保根町宿廻(くろほねちょうしゅくめぐり)辺りと
思われる。

【由来】

万葉集の和歌


  「賀美都家野 久路保乃禰呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良爾 
伊夜射可里久母」


  (かみつけぬ くろほのねろの くずはがた かなしけこらに 
いやさかりくも)

  にちなんでいる。

  1市2村プロフィール


治良門橋(じろえんばし)

住所

太田市成塚町1024

【由来】治良門橋駅の由来

江戸時代初期の篤志家・天笠治良右衛門が
用水路に石橋を架けたという言い伝えに由来する。

れとろ駅舎 治良門橋駅

www.retro-station.jp

治良門橋駅 – Wikipedia

治良門橋駅 | 路線図・駅情報 | 東武鉄道

老神温泉(おいがみおんせん)

住所

群馬県沼田市利根町老神

【由来】

老神温泉に伝わる伝説によれば、その昔、赤城山の神
(大蛇)と日光男体山(二荒山)の神(百足)とが
今の戦場ヶ原で領地争いをしました。

お互いに蛇と百足とに化けて激しく戦いましたが、 蛇になった赤城の神は矢傷を負ってしまいました。

傷を負った赤城の神は、後の老神の地まで戻り、
矢を抜き、地面に刺しました。

すると温泉が湧いたのです。

湧き出た温泉に浸かった蛇はみるみる傷が 治癒し、
すぐに元気を取り戻して見事百足を追いやりました。

男体山(二荒山)の神を追い払ったことから、その温泉は
「追い神(追神)」と呼ばれるようになり、赤城山の神は
温泉で老いるまで過ごしたので「老神」といわれました。

上記の伝説には他にも諸説ある。

1.赤城山の神がムカデ・二荒山の神が大蛇という説で
実はムカデが勝利したという説。

2.最後にムカデ神を追い返した時に大蛇神には助太刀がいたという説
(この助太刀は、野山に住む神獣・白猿・白雉・白鹿・白蛇
その他といわれている)。

3.大蛇神が傷を負ったのは眼で、追い払うときに
ムカデ神の眼に矢を射た。

4.この伝説はこの地方の貴族や豪族、有力者の争いを
神権化したものという説。

5.大蛇神は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の子孫・眷属・同神族であるという説。

老神温泉(おいがみおんせん)大蛇まつりと大蛇のご紹介

老神温泉の伝説 | 群馬県赤城山ポータルサイト

老神温泉 – Wikipedia

八ッ場(やんば)

住所八ッ場ダム建設予定地のため、予定地の住所と思われるのを記載。

群馬県吾妻郡長野原町大字川原畑字八ッ場

【由来】諸説あり。

1.狭い谷間に、獲物を追い込んで、矢を射た場所
「矢場(やば)」が転じ、「やんば」となった説

2.狩猟を行う場所に8つの落とし穴があったことから、
「8つの穴場」→「やつば」→「やんば」となった説

3.川の流れが急であることから、「谷場(やば)」が転じ、「やんば」となった説

八ッ場ダムの概要 | 八ッ場ダム工事事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

 八ッ場ダム – Wikipedia

八ッ場ダムの名前の由来? – 樹の声が聞こえる

六合(くに)

住所吾妻郡六合村は合併により、吾妻郡中之条町になっています。

群馬県吾妻郡中之条町

【由来】

小雨、赤岩、生須、太子(おおし)、日影、入山の「六つ」の大字が「合わさる」ということで、「六合」の名が付きました。

「六合」を「くに」と読む理由

古代東洋では、世界は東西南北及び天地の六面で
構成されたサイコロの内側のようなものだと
考えられていました。

六つの面が合わさっているので、世界のことを
「六合(りくごう)」とも呼びました。

同じく世界を意味する「天下」「四海」「八紘」と同様で、「六合」もしばしば「国」の意味をもって使われ、
古事記上巻序文の
「乾符を握って六合を総べ」、日本書紀神武天皇即位の
くだりのすぐ前の「六合を兼ねて以って都を開き」に
おいても「六合」は「支配の範囲=国」の意味で
使われています。

このことから「六合」を「くに」と読み、
六合村」を「くにむら」と読んでいます。

六合村 (群馬県) – Wikipedia

六合地区観光情報: 六合の名の由来

群馬以外の関東地方の難読地名

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