日本の難読地名と由来~福島編~
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日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、説話として残っているのを紹介しています。
目次の福島県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
温泉など観光地の由来を紹介しています。
福島県の難読地名と由来
一箕(いっき)
住所
【由来】
一箕山にある八幡神社の社殿を造るときに領民が
一箕づづ運んだことに由来すると社伝にありますが、
本来は、全長約90mの前方後円墳を箕で土を運んで
築いたことが由来のようです。
現在その古墳は富士通の造成と団地の造成で
消滅しました。
七日町(なぬかまち)
住所
【由来】
毎月7日に市が開かれたことに由来する。
現在、行政上は「なのかまち」と読ませているが、
駅名や道路名は土地発音の「なぬかまち」を
採用しています。
飯寺(にいでら)
住所
【由来】
飯寺という地名の由来は本光寺で葦名直盛が
飯を食したからだと伝わっています。
安積(あさか)
住所
【由来】
5世紀から6世紀にかけて、支配地を日本全国に広げた
大和政権は、地方の支配を確実なものとするために、
大和政権に服属した地方の有力豪族を国造に任命し、
その地域の統治にあたらせた。
当時の安積の地には阿尺国造がおかれ、比止禰命という人物が任命されたという。
この「阿尺」が現在の「安積(あさか)」の地名の由来と
いわれている。
差塩(さいそ)
住所
【由来】※諸説あり。
1、高い山から海が見えたので「潮を指さす」から転化して「差塩」となった説。
2、ここが会津地方への塩の輸送の集積地であったので、
「塩を差配する」から、「差塩」になった説。
いわき市三和町の「差塩(さいそ)」の地名由来について知りたい。 | レファレンス協同データベース
勿来(なこそ)
住所
【由来】※諸説あり
当初は菊多(きくた)という地名だったが、後の石城国時代に、多賀郡と菊多郡の境に「菊多関」が建てられ、
この菊多関はやがて「勿来関」に改名された。
「勿来」とは「な来(こ)そ」すなわち「来るなかれ」を
意味しており、蝦夷の南下を防ぐ意味を持っていたという説がある。
常陸国と陸奥国の境となった勿来関付近は断崖
(現在、平潟トンネルが貫通している)となっている。
この難所を抜けた所に関が位置したことから、
関東地方の武士たちから重視され、源義家も勿来に
立ち寄った。
勿来 – Wikipedia
上記はWikipediaを参照しましたが、個人ブログでは
これを否定するサイトもありました。
現地へ行って分かったことは、そこにある「文学歴史館」なるものを見るにつけ、どうもこの関は架空の産物では
ないかということだ。
そこに古くからある「名古曽(なこそ)」という地名に
目をつけた江戸時代の平藩が、歌枕で有名な「勿来」は
ここだとばかりに
「碑」を立てて観光客を引き寄せようとしたに違いない。
今の勿来関跡は、海岸の高い丘の上にあり、
街道が通過していたとも思われない。
名古曽は、なだらかな海岸の狭い平坦地を表す地形用語、とあります。
また、アイヌ語の説もあり、ナコソnako’soはna-kot-soの合成語。
ナは水、コツは孔ー竹を二つ割にして、凹面を海に向けたような孔道、ソウは海岸に見え隠れしている岩で、
「海水にひたる孔道のある低い岩」の意。
現在の街道は、勿来の関阯のある丘陵上に通じているが、
古いアイヌの時代には海岸沿いの自然の孔道が通路として
利用せられていたと思われるという。
他の説には、nai-kush(川を越す)の訛りだという。
合戦坂(ごうせんざか)
住所
【由来】
天正7年5月17日、常陸の佐竹義重の軍勢が、
関山方面より白河へと侵攻してきた。
白河結城義親の軍勢千余騎は、五日市場・館合から、
古道の坂(市営火葬場がある坂)を通り迎撃した。
白河勢が後退したとき、白河軍の背後から、
14・5才の少年2人が忽然と現れた。
妖しき面貌の二人が敵軍中に躍り込むと、佐竹勢は無数の軍勢と幻覚してパニックに陥り、総崩れとなった。
二人の少年が仕止めた首は、280余であったという。
戦いの後、義親が件の少年に「汝らは如何なる者ぞ」と
問うと、
「我らは不動明王の使途、矜迦羅童子(こんがらどうじ)と
制咤迦童子(せいたかどうじ)なり。行末も汝らを守らん」
と答えて、姿を掻き消したという。
これ以後、館合の坂道は「合戦坂(こうせんざか)」と呼ばれ、路傍に「味方不動」が祀られた。
そこに湧く「味方不動清水」は、今も絶えずに残っている。
神俣(かんまた)
住所
【由来】
カアアヌka anu(鳥を捕えるワナ)、マタmata(冬)の転訛。
冬に渡り鳥が来たとき、ワナをかけて捕った所であろうという。
東北のアイヌ語由来とみられる駅名(山形県・福島県)(3) – 地名アラカルト
霊山(りょうぜん)
住所
【由来】
比叡山延暦寺の座主円仁によって開山されたといわれ、
釈迦が修行したというインドの霊鷲山(りょうじゅせん)にちなみ霊山と命名された。
桑折(こおり)
住所
【由来】
奈良・平安時代の東山道に駅家(うまや)が設置され、
郡家がおかれたところから桑折と改められた。
【豆知識】
桑折町には醸芳(じょうほう)中学校など、醸芳が付く
教育機関などがありますが、この由来は明治時代の初め、
明治天皇が桑折町で休息を取られた際、随行の木戸孝充が
この地に「醸芳」の書を与えたことに由来しています。
醸芳中学校での解釈では「醸」とは酒を醸すこと、
「芳」とは香りある花のこととし、これを総合して解釈すると
「賢者能士を育成すること,あたかも米麹に和して
酒を熟成するよう盛んに多くの人材を育成すること」
としてます。
柳津(やないづ)
住所
【由来】
只見川の河岸は明治時代までは柳の大木が繁茂しており、大同の頃(約1200年前)、南岩坂(今の柳津)の河岸に三本の大柳があり、
船やいかだの発着所であったので
柳津の地名が起こったと言われています。
宮城県の柳津、岐阜県の柳津、そして会津の柳津町も共に、川に添って水運の便があり、発音はいずれも
「やないづ」であることから、「梁場」の語源に関係あるといわれています。
鶴生(つりゅう)
住所
【由来】
いつのころか、千歳川の上流に住む鶴が2羽の子を産み、愛しみ育てていた。しかし、日たてど羽も生えずただ衰えるばかりで親鶴は大へん心配した。
ある日、住み場所を代えてはと、子鶴を笹原の池に伴った。
しばらくして、子鶴は丈夫になり羽もそろったので親鶴は大いに喜び、子鶴を連れて手綱番の沼へ飛び去ったと
いう。
人々はこの鶴の住みついた沼を鶴沼、川を千歳川、下流の村を鶴生、羽の生えた村を羽太と呼ぶようになったと
伝えられる。
西郷村社会科副読本 DATA BOOK-058/147page
羽太(はぶと)の地名の由来 – 国立オリンピック記念青少年総合センター にいどんブログ
塙(はなわ)
住所
【由来】
川岸段丘の小高くなった場所から、「ハナワ」と
呼ばれるようになったとされている。
「塙」を大辞林(三省堂)で調べてみると、
「山などの突き出した所。また、土の小高く盛り上がった所。」
と書かれてある。
地名に込められた様々な想い ~ 地名の由来(白河市・西白河郡・東白川郡): 楽に暮らす、しらかわ
古殿町(ふるどのまち)
住所
福島県石川郡古殿町
【由来】
旧宮本村・旧竹貫村が合併した際に、総鎮守である
古殿八幡神社の所在地である「古殿」の地から取ったものです。
「古殿」という地名は古より代々領主が隠居し八幡を守護していた際に
古記殿を館としていたことから、この地を「古殿」と
呼ぶようになりました。
番外編
鐙摺石ザクラ(あぶづりざくら)
住所
【由来】※諸説あり
1.別名「一本松の種まき桜」とも呼ばれ、坂上田村麻呂が大滝根へ馬を進めている途中、岩が両側から迫り、
鐙(あぶみ)を摺りながらようやく通り抜けた眼前に、
桜が見事な花を咲かせて迎えてくれた、と言う伝承が
由来です。
2.鐙摺城址があり、1177年(治承元年)、未だ伊豆配流の身であった挙兵前の源頼朝が三浦を訪れた際、ここ鐙摺にあった三浦大介義明の三男、太多和三郎義久の別館を
訪れました。
「鐙摺山」という名称は、小山に城を造る計画を話し、
義久が頼朝を案内したときに道が狭く巌に頼朝の鐙が摺れたことから、頼朝が鐙摺山と名づけたそうです。
お伊勢様の鐙摺石ザクラ ( 福島県 ) – 福島県一本桜型録(カタログ) – Yahoo!ブログ
塔の岪(とうのへつり)
住所
福島県 南会津郡下郷町 弥五島下タ林
【由来】
自然が作り出した渓谷のことを指し、塔の形が立ち並ぶ
断崖という意味から「塔のへつり」と名づけられた。
へつりとは地元の言葉で断崖のことを言う。
塔のへつり (とうのへつり) | 南会津の観光スポット、イベント、宿泊施設など旅行案内 | おいでよ!南会津
木賊温泉(とくさおんせん)
住所
福島県 南会津郡南会津町 宮里
【由来】
植物の木賊(とくさ)が群生していたことから。
[温泉案内] 南会津町 木賊温泉(とくさおんせん) | 南会津の観光スポット、イベント、宿泊施設など旅行案内 | おいでよ!南会津
甲子高原(かしこうげん)
住所
福島県西白河郡西郷村大字小田倉字赤面山国有林
【由来】※由来は甲子温泉なので高原の由来とは違うかもしれません。
甲子温泉は甲子の山中にあり、600年以上前の志徳元年(1384)甲子(干支の一つで1番目)の年に、州安和尚に発見されたことにその名の由来があると言われています。
温泉で癒す 【西郷村観光協会 さわやか高原公園都市「にしごう」】
猫啼温泉(ねこなきおんせん)
住所
福島県石川郡石川町猫啼
【由来】
平安中期の女流歌人「和泉式部(当地では玉世姫)」は
この石川の地で生まれました。
和泉式部には愛猫の(そめ)が居ました。
和泉式部が京の都へ上る際、故郷にとり残された愛猫は
病み衰えていたが、式部を慕い、日毎にこの泉に来ては
啼き、 泉に浴しているうちに病体は癒えて、美しき猫となった。
猫を憐れんで見守っていた里人達は、はじめて泉が霊泉であることを知り、泉水を汲んで入浴したら、 諸病に効顕があり、この里を猫啼と名づけ、湯治場を設けた。
福島以外の東北地方の難読地名