日本の難読地名と由来~茨城編~
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日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として残っているのを紹介しています。
目次の茨城県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
神社の由来や伝聞などを紹介しています。
茨城県の難読地名と由来
七五三場(しめば)
住所
茨城県結城市七五三場
【由来】※複数の推測あり。
1.神社などに用いるしめ縄の種類の1つに、結った縄から垂らすワラの数を順に3、5、7本とするものがある。
これがしめ縄を七五三縄と描く由来であり、当地名も
七五三縄が転訛して七五三場とする推測。
2.「日本歴史地名大系」によると、鎌倉時代に
「志目波」、安土桃山時代に「志めは」と記された文書が残っているされ、
これを正しいとするなら、「志目波」→「志めは」→
「七五三場」と転訛したとの推測。
「七五三場」の漢字が当てられたのは、縁起の良い
七五三縄にあやかったためと思われる。
【難読地名紀行】結城市七五三場 由来はしめ縄か当て字か – 産経ニュース
水海道(みつかいどう)
住所
茨城県結城市水海道
【由来】※諸説あり
1.平安時代の武将坂上田村麻呂がこの地で馬に水を
飲ませた(水飼戸:ミツカヘト)という故事に由来する。
2.「カイト」集落の地名と思われる。
「水」の字は、湛水(たんすい)しがちな低湿地にある
集落を示す。
ただ、カイトについての定義は難しく、諸説ある。
例としては和歌森太郎は
「将来耕地にすることを予定して囲った土地」
柳田国男は「有力者の比護のもとで住民が耕地化した
土地」など様々である。
「水海道」の地名由来と「カイト」集落 : 目からウロコの地名由来
天下野(けがの)
住所
茨城県常陸太田市天下野町
【由来】
光圀公が巡視で当地を訪れた際、住民が地区に伝わる
散々楽(ささら、獅子舞)を披露した。
その舞が軽い調子で非常に面白かったため、
光圀公が「天下一品」の称号を与えたという。
その噂が江戸の将軍の耳にも届き、将軍の前でも
散々楽を披露することになる。
その際、住民らは「天下一」とのぼりを立てたが、
将軍は「誰の許しを得て天下一と称しているのか」と
激怒。
見かねた光圀公がとっさに
「常陸国には天下野(けがの)という村があり、天下野一の誤りだ」
と釈明したことから。
【難読地名を行く-茨城編】水戸光圀公の粋な計らい 常陸太田市天下野町(けがのちょう)(1/2ページ) – 産経ニュース
高道祖(たかさい)
住所
茨城県下妻市高道祖
【由来】
この地には高道祖神社があり、集落の道祖神
(どうそじん)。
道祖神は『さいのかみ』とも読み、当地は高台にあるので
『高』が付されたと考えられる。
※道祖神は、路傍の神である。
集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として
信仰されている。
【難読地名を行く-茨城編】男性器を模した石像がズラリ 子授けに御利益、下妻市高道祖(たかさい)(1/2ページ) – 産経ニュース
随分附(なむさんづけ)
住所
茨城県笠間市随分附
【由来】
地名は目下の者に自分の身分に随(したが)って、
そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、
『なふさつ』が転訛(てんか)したもの、と言う説や
仏教由来説、アイヌ語説などがあるが詳しいことは不明。
【難読地名を行く-茨城編】なまって変化? アイヌ語説も 笠間市随分附(なむさんづけ)(1/2ページ) – 産経ニュース
小浮気(こぶけ)
住所
茨城県取手市小浮気
【由来】
取手市に合併する前の藤代町が編集した「藤代町史」には
「地名の『ふけ』とは、深田とか沼沢地を意味し、後背湿地である」
と書かれている。
取手市はほぼ全域で利根川と小貝川に囲まれており、
戦国時代以前は小貝川に堤防はなく、周辺は沼地だった。
江戸時代に入ると治水事業が行われて川筋も安定したものの、大雨の際には濁流が田畑や住宅をのみ込んできた。
旧藤代町域の農家では、水害に備えて避難用の木造船を
軒先にぶら下げる習慣が以前にはあったという。
【難読地名を行く-茨城編】湿地が由来?水害の過去も 取手市小浮気(こぶけ)(1/2ページ) – 産経ニュース
女化町(おなばけちょう)
住所
茨城県牛久市女化町
【由来】
『女化物語』というキツネが嫁入りする民話が由来に
なっている。
『女化物語』には2つの伝承がある。
1.栗林義長伝
赤松宗旦「利根川図志」(安政2年, 1855年)五の
「栗林義長伝」等が伝えている。
牛久城主岡見氏の老臣に栗林義長がおり、稲塚に向けて
駒を走らせていたが、道中、火縄の匂いが鼻に入ったため、気を引き締め、辺りを見渡すと、猟師が鉄砲を構えていたので、その先を観ると、一匹の狐が腹を痛めて前足でさすっていた。
あまりの痛さに火縄の匂いにも気づいていない様子で
あった。
義長は飯名権現の詣で出たばかり、それも飯名権現の
使い姫はキツネであり、飯綱使いの巫女はキツネを用いて人の吉凶を占う。
義長は飯綱使いに頼んで妻の交霊をしてもらった恩もあったので、小石を猟師に向かって投げつけ、弾は狙いを外した。
それに気づいた狐は察して逃げた。
社前に戻ると亡き妻に似た女がおり、義長はその女を娶るが、女との間に生まれた子が6歳の頃、妻の正体が狐とわかり、行方知れずとなった。
翌日、縁先に
「みどり児の母はと問わば、女化けの原に泣く伏すと答えよ」
と書かれた一枚の紙が置かれていた。
以来、この原を「女化原」といい、いつからか稲荷の祠が建てられた。
2.根本村の忠五郎(忠七)伝
社伝や「女化稲荷縁起略記」等が伝えている。
その他、龍ケ崎市役所が龍ケ崎の昔話「キツネの恩返し」として掲載している。
茨城県牛久市観光協会の「娘に化けた狐の話」では、
栗林義長は忠五郎の子孫で、彼が稲荷神社を創建したとしている。
なお、根本村(現稲敷市上根本)には、女化神社分社の
稲荷神社(旧名は根本女化稲荷神社)がある。
建久年間(1190-1198年)、源頼朝が冨士の根で狩りをしていたところ、霊狐に会い、高見が原の稲荷祠に
移り住めと助言した。
高見が原は女化原の古名で、他に根本ヶ原や小萩ヶ原とも呼んだ。
永正7年(1510年)、根本村の忠五郎が、眠っている霊狐を咳払いして起こし、獲夫から助けた。
家に帰ると戸口に奥州から鎌倉へ向かうという老男若女がいたので、一宿を貸したところ、翌朝には若女一人が
取り残されていた。
行方知れずの男を探す間、女は耕作など手伝いをしていたが、やがて忠五郎が妻に娶った。
夫婦は一女二男を儲けた。
永正14年(1517年)のある日、霊狐であった女は、
子に正体を知られてしまったことを恥じて姿を消した。
忠五郎は霊狐が女性として現れた神秘を語り伝え、いつしか高見が原は女化原に、稲荷祠は女化稲荷と
呼ばれるようになった。
この忠五郎伝によれば、稲荷祠の創祀は
建久年間(1190-1198年)以前に遡る。
【難読地名紀行 茨城】恩に報いたキツネの伝説 牛久市女化町 – 産経ニュース
【感想】↓の女化稲荷縁起(境内の案内板)ではキツネが残した歌と忠五郎が3児を抱えて探すも姿を再び見ることがなかった、趣旨の一文が好きです。
女化(おなばけ)稲荷の狐・・女化物語 | 神使像めぐり*余話
天宝喜(あまぼうき)
住所
茨城県つくば市天宝喜
【由来】
【簡略版】
当地で1口の剣を発見する。
里の人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いないと信じ、里の人たちは大いに喜び祀ったことから
里の名が天宝喜になったと言う。
【詳細】
天宝喜の十字路に鎮座する厳島神社通称弁天様の縁起によると次のように記されているという。
平賀迪也氏が記した
「天宝喜厳島神社と宝物等の由来について」
に従ってひも解く。
「昔々昔、当地の原野にひとつの堆塚があり、
夜々不思議な紫の光を発しはじめたので、里人が恐る恐る近づき調べたところ、一口の剣を発見した。
里人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いあるまいと、丁重に持ち帰り、「天の宝剣」と呼び祠を建てて納め更に占ったところ、
「是正しく弁財天の宝剣なり、ゆめ忽せにすべからず」
と卦に現れたので里人達は大いに驚き、且つ喜び益々篤く崇めて常に弁財天の祭祀を怠らなかったという。
ところがある時、一人の雲水が飄然としてこの里に現れ
里人から宝剣の由来を聞かされた。
偶々この雲水が背負っていたのは弁財天像であった。
里人たちがそれを謹み拝すると、慈眼優麗、尊容瑞厳、
粛然襟を正さじめる程の如何にも優れた木像であったが、
奇しくもその右手に有るべき筈の宝剣だけは持っていないので里人たちは不審に思ったが、雲水は厳かに
「この里こそ弁財天の鎮座すべき宿縁の地なり」
といい、その尊像を里人達に託し、何処ともなく
立ち去ってしまったという。
里人達その雲水のなされ様に、よほどの高僧か神仏の権化でもあったろうかと深く信じ以来この里では、この尊像を天の宝剣と共に天宝山観音寺を別当として愈々丁重に祀り続けたと云うことである。
後に尊像には、これに応じ小剣を持たせたということで
ある。
そして元和年間更に大きい社殿を建て直したのである。
つまり天より降れる宝剣を得、郷民大いに喜び祀ったということから里の名が天宝喜と呼ばれるようになったというわけである。」
http://jiyuugaoka.gozaru.jp/1305/130502.html
潮来(いたこ)
住所
茨城県潮来市
【由来】
『常陸国風土記』には「伊多久(いたく)」とされ、
後に「板久」ないしは「板来」と変遷しています。
「伊多久」の由来は崇神天皇の時代、東国平定のために
常陸に派遣された建借間命が国栖の夜尺斯(やさかし)、
夜筑斯(やつくし)を討った際に、国栖らは大変痛がりながら死んだことから、この地は「伊多久(いたく)」と
名付けられ、伊多久の郷と称されました。
その後、「板久」ないしは「板来」になり、
常陸国水戸藩主の徳川光圀公が、
「何故、”潮”を(いた)と読むのかと土地の者に訊ねると、この地方の方言で、潮のことを”いた”と言う」
ことを知りました。
凪の海の潮の状態が板のように平面に見えること。
木目が水の流れのように見えることから、古くから
“板”に例えられたのが由来のようです。
それに興味を持った光圀公がそれまで「板来」とされていたこの土地を「潮来」と改めよ。と命じて、
これ以降「潮来(いたこ)」と読むようになりました。
茨城県の潮来はどうして潮に来ると言う書き方をするのでしょうか… – Yahoo!知恵袋
「歴史地名」もう一つの読み方:ジャパンナレッジ 第53回 潮来
赤法花(あかぼっけ)
住所
茨城県守谷市赤法花
【由来】
平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。
平将門伝説 守谷市公式スマートフォンサイト-Moriya City
行方(なめがた)
住所
茨城県行方市
【由来】
倭武の天皇が当地の景色を見て
「山の尾根も海の入江も、互い違いに交わり、うねうねと
曲がりくねって見える。
峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)見え、繊細な(くはしい)美しさがある。
だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」
この行細の名が後に、行方(なめがた)となったとされています。
次木(なみき)
住所
茨城県行方市次木
【由来】
往還(道の行き来)にあった松並木に由来するという。
「なみ」に「次」の字を当てたかは不明。
野田市の難読地名・珍しい地名 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ
廻戸(はさまど)
住所
茨城県稲敷郡阿見町廻戸
【由来】
阿見の昔ばなしでは「波佐間戸(はさまど)」とも書かれ、音が先なのか「角川日本地名大辞典」には、
「海に挟まれた土地に由来する」と書かれていた。
「波佐間戸」の地名は慶長七年(1602)には
現在の「廻戸」の地名に変わっています。
当時、田や畑の広さを調べた検地帳に廻戸村として出てくる。
現在の漢字である廻戸ですが、「廻」は、あたりを
ぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、
「国道125号線より旧道をたどってみると、曲がりくねった細い道」
なので、廻という字が当てられたのではないか、としている。
また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名があり、また、河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされているので、舟のつく所からきているのではないかとされている。
【難読地名を行く-茨城編】曲がりくねった旧道が由来? 阿見町廻戸(はさまど)(1/2ページ) – 産経ニュース
大角豆(ささぎ)
住所
茨城県つくば市大角豆
【由来】※諸説あり。
1.当地で栽培している「大角豆(ささげ)」が
転訛し大角豆(ささぎ)となった説。
2.ササゲを集めたときのように土地がでこぼこしている様から
地名になった説。
【難読地名を行く-茨城編】豆のササゲが「ささぎ」に? つくば市大角豆(ささぎ)(1/2ページ) – 産経ニュース
月出里(すだち)
住所
茨城県稲敷市月出里
【由来】※諸説あり。
1.「角川日本地名大辞典」には
「もとは月出と書いて『すたち』と読んだが、のちに
月出里(すだち)と改めた」。
読み方の由来については
「地内に大清水という字があり、清水の湧き出る地に由来する」という説
「上谷原という字があり、州がたっている地に由来する」という説が紹介されていた。
2.「筑波地方の地名の由来」では
「月出里の『月出』は『朏(ひ)』のこと」だと書かれている。
朏は「みかづき」とも読み、「三日月の里」が「朏の里」と転化し、「月出里」になったのではないかとしている。
読み方については「新月の現れを小鳥の巣立ちに
見立てた」のではないかと推察している。
月の満ち欠けで月日の長さを決める太陰暦では、新たな
月に入ってから初めて見える月は三日月である。
そのことから三日月のことを新月とも呼び、月に
入ってから初めて見える三日月(新月)を、鳥の巣立ちになぞらえたのではないかという説。
また、地元の方の話では
「月にちなんでいるのか、月出里にはウサギは食べてはいけないという言い伝えがある」と言う。
【難読地名を行く-茨城編】三日月に由来? ウサギの伝承も 稲敷市月出里(すだち)(1/2ページ) – 産経ニュース
木葉下町(あぼっけちょう)
住所
茨城県水戸市木葉下町
【由来】※諸説あり。
1.崖説
「アボッケのボッケはバッケと同じで崖のこと」を指す。
なぜ、それを「木葉下」と表記するのかは、堀口友一著「今昔水戸の地名」では「そのような場所の大樹の陰の意味である」と説明している。
崖の上に生えた木の下ということを表しているのだろう。
2.アイヌ語説
アイヌ語の「o-pok=がけ下<o(尻)pok(下)」から来た説やアイヌの人に「木葉下」と書いて見せたところ
「あぶけ」と読んだと言う話もある。
3.朝房山の下説
堀口友一氏の著書「今昔水戸の地名」では
「朝房山の下にあることから、アボ下(ないしは、あさぼう下)の地名が起こったとも考えられる」
これが転化して、「あぼっ下(け)」となったという説
また、堀口友一氏の著書「今昔水戸の地名」には、
古く安土桃山時代には木葉下村と書き、
「あほつけ村」と読んでいたとあります。
【地名のはなし】木葉下(あぼっけ) アイヌ語との説も 茨城・水戸 – 産経ニュース
【難読地名を行く-茨城編】難易度全国レベル 水戸市木葉下町(あぼっけまち) 山麓の地形に由来?!(1/2ページ) – 産経ニュース
番外編
手子生(てごまる)
住所
茨城県つくば市手子生
※下記の由来は手子神社の由来が元です。
【由来(簡易版)】
女性の股に手を添えたら子供が産まれ、その名前を「手子丸」とつけ、其の子が成人して功績を残し、その徳を慕って神社を建立して守り神とし手子神社となったことが
由来とされる。
鹿島神社(手子生)[茨城県つくば市手子生985番] – 時を巡るお寺神社の旅 (つくば市)
【由来(詳細版)】
手子生村に住んでいた若い夫婦は、夫の留守中、その妻が村の若い衆のいたずらに遭わないように、 夫婦の隣に
住む爺さんが、毎晩妻の身体に手を当てて守ってやったら、いつしか妻は妊娠した。
生まれた男の子は、稀に見る秀才で、成人して立派な功績を残したことから、後世その徳を慕って一社を建立して末代までの守り神とした。
「手を当てて子が生まれた」ということから
手子神社といわれているという。
子生(こなじ)
住所
茨城県鉾田市子生
【由来】※氏子の伝聞だが可能性は高いと思い掲載
当地には厳島神社「本殿」があり、
「子生の弁天様」として親しまれている。
こちらの神社の氏子総代会長の話では
「地名が決まる前から神社があり、安産の神様として
親しまれていたから、子生という地名になったのだと思う」
とのこと。
「こなじ」と読む由来としては
「昔、年配の氏子から『子を生(な)す』がなまって
『こなす』から『こなじ』に変化したと聞いた」
とのこと。
【難読地名を行く-茨城編】古くから安産を祈願 鉾田市子生(こなじ)(1/2ページ) – 産経ニュース
大甕(おおみか)
住所
茨城県日立市大みか町※住所などでは大みかを使用している。
【由来】※確たる由来は不明。考察サイトを参照。
神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、
あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられるため。
大甕の「甕」を「みか」と読むときは、水を入れる容器という意味のほかに、酒を入れたり、酒を醸造するときに使われる器という意味が付け加えられる。
・大甕の使用例
1.祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」
2.「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境とした。
・大甕の地名が何時頃からあるのか?
大甕の地名が確認できるのは天保13年の「久慈郡久慈村田畑反別絵図」に
よれば、「大甕」は久慈村の字名の一つとしてあります。
また、考察サイトでは従来の説を否定してるので、こちらも掲載します。
いずれも大甕神社(ふるくは、大甕倭文神宮)の由来を説明し、神社名あるいは神名から、地名「大甕」の由来が
説明されている。
(1)甕星神説
(大甕倭文神宮社記)
「常陸風土記に曰く、大甕は甕星神の居所の
土地なり。故に大甕と称す」
→ 現伝本の「常陸国風土記」には、大甕や甕星神の記載がなく、根拠がない。
(2)天津甕星説(大甕倭文神宮社記)
「当社縁起に曰く、建葉槌命は天神の勅をこうむり、
天津甕星を誅して倭文郷に鎮座す」。
ゆえに大甕倭文神宮といった。
→ 倭文郷は、現在の茨城県那珂市静の地をさす。
天津甕星は「日本書紀」にみえる神であるが、大甕とはなんら関係がない。
(3)甕星香々背男(みかぼしかがせお)説
(宮田実『大甕より久慈浜あたり』)
「大甕の地は先住民族として古典に載ることころの
甕星香々背男と称する強賊の占拠していたところであったために
伝えて此処を大甕と称すると云われている」
→ 甕星香々背男と大甕を結びつけるものはなにもない。
茨城以外の関東地方の難読地名