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日本の難読地名と由来~埼玉編~

 

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、説話として残っているのを紹介しています。

埼玉県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
住所に残ってないのや神社の由来などを紹介しています。

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埼玉県の難読地名と由来

 清河寺(せいがんじ)

住所

埼玉県さいたま市西区清河寺

【由来】

室町時代初期、鎌倉公方足利基氏が、病中に見た夢の中で、亡兄・竹若丸が大龍に乗って枕元に現れ、清い水を
基氏の顔にかけた。

これにより、病気がたちまちに全快したことから、
亡兄追善のため、
大竜に乗って現れたことから山号
「大龍山」とし、
清い水を与えられたことから寺号を
「清河寺」としたのである。

この縁により、足利家祈願所となり、追って、岩槻太田家からも
篤い帰依を受けた。

清河寺 – ときどりの鳴く 喫茶店

http://blog.livedoor.jp/gosyuin_walker/archives/13496020.html

風渡野(ふっとの)

住所

埼玉県さいたま市見沼区風渡野

【由来】

台地に挟まれたこの地域が女性器を連想させるため、

女性器の古語である「ホト」が転訛したとされる。

風渡野 – Wikipedia

大宮 風渡野の宮 を探って・・・ – ときどりの鳴く 喫茶店

ほと – Wikipedia

宮ヶ谷塔(みやがやとう)

住所

埼玉県さいたま市見沼区宮ケ谷塔

【由来】

鎮守であった氷川神社(宮)と、谷戸があったことから
「宮ヶ谷戸」と呼ばれ、その表記が変化したもの。

宮ヶ谷塔 – Wikipedia

新開(しびらき)

住所

埼玉県さいたま市桜区新開

【由来】

1590年(天正18年)の小田原征伐により後北条氏方の岩槻城が落城し、城から落ち延びた旗本の士浪人が土着し
一村を開いた。

村は「新開村」(新たに開かれた村)とよばれ地名の
由来となった。

新開 (さいたま市) – Wikipedia

さいたま市桜区にある新開(しびらき)について、由来がわかる資料が見たい。 | レファレンス協同データベース

神田(じんで)

住所

埼玉県さいたま市桜区神田

【由来】

古来伊勢神宮神領であったことに由来するという。

月讀社。さいたま市桜区神田の神社

西浦和の神社

神田 (曖昧さ回避) – Wikipedia

道祖土(さいど)

住所

埼玉県さいたま市緑区道祖土

【由来】諸説あり。

1.「新編武蔵」には道祖土神の社があったためとする説。

2.比企郡八ツ林村の名主道祖土氏の祖先道祖土土佐守が

戦国期に当地に住したためとする説。

「道祖土」の地名の由来

釣上(かぎあげ)

住所

埼玉県さいたま市岩槻区釣上

【由来】

かつては鈎上などと書かれていたが、帳簿などに記載する際に釣上となり、読みがそのままになったものと
考えられている。

釣上 – Wikipedia

岩槻市釣上(かぎあげ)の漢字について -私の実家の近所、埼玉県岩槻市- 地理学 | 教えて!goo

妻沼(めぬま)

住所

埼玉県熊谷市妻沼

【由来】

利根川の流れが、今日の淵も明日は瀬となる、というようなことを繰り返すうちに、利根川の上流地と下流地とに
同じような
大きな沼ができた。

上の沼を男沼(おぬま)、下の沼を女沼(めぬま)と
読んでいたが、
江戸時代になって音に漢字をあて目沼と
書いた。


御朱印に目沼とある。

たまたま妻(めあ)わす(※1)の妻と女を入れかえて
妻沼と書き、
これが一般の好みにあったのか、妻沼という文字が定着して今日に及んでいる。

※1.女を合わす。女を添わす。嫁を付ける。

妻沼周辺の様子 – 埼玉県立妻沼高等学校

妻沼(めぬま)とは – コトバンク

めあわす【妻わす・(女合わす)】

神米金(かめがね)

住所

埼玉県所沢市神米金

【由来】

神谷新田の「神」、平塚新田(久米新田とも呼ばれた)の「米」、堀兼新田(堀金新田とも記される)の「金」を
合わせて
「神米金」と名づけられた。

神米金 – Wikipedia

地名のヨミと由来を調べる|神原 俊治|日文エッセイ132 – 日本語日本文学科

双柳(なみやなぎ)

住所

埼玉県飯能市双柳

【由来】双柳稲荷神社の社伝

社伝によると、弘仁5年(814年)現在の境内地西南に老木の並木があり、その2本の古柳の根本に白狐が
遊んでいた。

以来当地を双柳と呼ぶようになり、それを聞いた弘法大師が稲荷を
勧請し神像を彫刻しこれを祀ったと言う。

由来 | 双柳稲荷神社

稲荷神社 (飯能市双柳) – Wikipedia

http://www2.odn.ne.jp/ir-festa03y/hannou_namiyanagi.html

手計(てばか)

住所

埼玉県深谷市上手計

埼玉県深谷市下手計

【由来】諸説あり。

1.手計は古くは手墓と書き、その昔、八幡太郎義家
(もしくは部下)の
切り落とされた片腕を葬ったことに
由来する説。

2.手計のハカは地形の崖(ハカ)や古名の竹幌

アイヌ語で縄張り・垣根の意)が手計幌から手計と
言う説。

埼玉県の地名集

手計家物語

21.生地、血洗島の地名について/深谷市ホームページ

矢颪 (やおろし)

住所

埼玉県飯能市矢颪

【由来】諸説あり。

1.平将門が岩淵の八幡神社のあたりから三本の征矢(そや)を放ち、
戦勝を祈願したといわれ、そのうちの一本の矢が落ちたところが、いまの矢颪の地である。

矢が下りたので矢下と呼んだが、後世になって矢下風と
書くようになり、
さらに下と風をくっ付けて矢颪と
書くようになったという。

2.「矢颪」 のあたりの地形を見ると、 西側に小高い山が
あり、
矢颪はその山のちょうどふもとに存在している。

冬の北西風 (空っ風) が吹いた時に、 この山から颪風が

吹いてくることによりつけられた地名とも考えられる。

なお、 「矢」 (ヤ) は 「岩とか石」 を意味する地名に多いということから、
近くの 「岩山」 から吹き降りて来る颪という
説も考えられる。

「颪 (おろし)」 には崖の意味もあるという。

In the Eyes of Ghosts

荒川流域を中心とする埼玉県内における 自然地名からみた災害常習地に関する気候的研究 (第1報) 埼玉県内の気候地名の分布 参照

上敷免(じょうしきめん)

住所

埼玉県深谷市上敷免

【由来】

江戸時代の史書には上鋪免村とあるが、元は雑食免
(ぞうしきめん)に
由来する。

雑食とは律令時代、工芸、技術等の雑役に従事した人の
ことで
租税が免除されていた。

日本煉瓦製造

http://www.ooyori-e.ed.jp/gakkutizu.htm

加須(かぞ)

住所

埼玉県加須市

【由来】諸説あり。

1.加津説
加須の“光明寺”という寺は、元亀2年(1571)に

“加津内蔵丞長高”によって創建されたという。

この加津内蔵丞長高の「加津」にちなんで、

加須の地名が起こったとする説。

2.神増説
加須市内に“大聖院”という寺がある。


これは京都の聖護院の流れをくむ修験の寺で、
八幡山大聖院神増寺と
号した。

この「神増寺」の「神増」から加須の地名が起こったと
する説。
それを裏付けるかのように、市内には「神増村」と
記されたものが
存在する。

3.加増説
元禄頃より、利根川治水工事や新田開発が活発化し、
加須の地の石高が増加していった。
旗本にしてみれば、これは石高の「加増」を
意味している。
ゆえに加須の地名が起こった。

地誌『新編武蔵風土記稿』の「加須村」項には、


「古は加増と記しかぞと唱へしが、後文字は今の如く改めしといへど、

唱はもとの如くなり、正保の頃は未だ加増と記し、元禄の頃は加須村と
のせたれば、其改めしは元禄前のことなるべし」

と記されている。

4.河洲説

利根川本流の「河洲(かす)」が転じたという説。

“加須”(かぞ)の地名の由来は? ―子ども昔語り(127)― – クニの部屋 -北武蔵の風土記-

加須市 – Wikipedia

遊馬町(あすまちょう)

住所

埼玉県草加市遊馬町

【由来】諸説あり。

1.古代の「牧」(牛馬を放し飼いにする場所)からの説。

2.地形(湿地の狭間)からという説。

アスマはアソマの呼びが正しいと考え、アソは水の浅いところ、
湿地の意が、マには湖沼・狭間の意があり、
この地が古く荒川沿岸の低湿の狭間にあったがために
その名が付いたとする説

草加市内の地名「遊馬」(あそま)の由来が知りたい。 | レファレンス協同データベース

「遊馬」の名字の由来

志多見(しだみ)

住所

埼玉県加須市志多見

【由来】諸説あり。

1.この地域の地形には高低差があり、低いところは低湿地で
水が常に浸っているような状態だったという。

ゆえに、“浸水”(しだみ)からついたという説。

2.古利根川と赤城おろしによって形成された

“河畔砂丘”(内陸砂丘)に登ると集落が下に見えたことから。

“下見”とする説。

3.「志多見」の字面は、この地域の名主松村氏が
元々伊勢におり、
土着した際にかつて領有していた一志、多気、飯南(見)から、それぞれ一字取ったという説を、郷土史家の“松村勝”氏は唱えている。

“志多見”(しだみ)の地名の由来は? ―?な地名(3)― – クニの部屋 -北武蔵の風土記-

仏子(ぶし)

住所

埼玉県入間市仏子

【由来】諸説あり。「ぶっし」ともいう。

1.「ブシ」は多く小平地河岸段丘・谷頭・鈍頂の山に
みられる
地名なので、地形によるものであるという説。

 2.昔、ここに「仏師」が住んでいて、それが元になったという説。

3.昔、ここに「武士」が住んでいて、それが元になったという説。

「仏子」の地名の由来

地名の由来(図書館いるま・こども郷土資料より)|入間市公式ホームページ

礼羽(らいは)

住所

埼玉県加須市礼羽

【由来】礼羽の意味は定かではないがアイヌ語説の可能性がある。

「らい」はアイヌ語で「低い場所」、「ぱ」は「水が充ちた」という意味。

「礼羽」の地名の由来

舎人新田(とねりしんでん)

住所

埼玉県桶川市舎人新田

【由来】

古くは坂田村護摩堂寺の沼で「護摩堂沼」と称されていましたが、元和年中(1615~1624)に加納村の舎人という者が開発し新田としたので、この名が付いたといいます。

舎人 桶川の舎人新田: 桶川市観光協会

桶川市/市指定文化財

五十子(いかっこ)

住所

埼玉県本庄市五十子

【由来】

地名は、「五十日」を「いか」と読み、「いか」は洪水の起こりやすい平地の意。

■「数」の地名

垳(がけ)

住所

埼玉県八潮市

【由来】

水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」くという字を当てたことが由来となっている。

ちなみに「垳」という文字はJIS第二水準漢字であるが、この地名ならびに
垳川の河川名を表記する以外には
使われない。

垳 – Wikipedia

【埼玉県】南埼玉郡八潮町大字垳 – 旧町名をさがす会

采女(うねめ)

住所

埼玉県三郷市采女

【由来】

元は采女新田と呼ばれていた所で、その地名は隣村の
彦糸村の
采女という者が開拓したことに由来する。

采女女体神社。三郷市采女の神社

羽生(はにゅう)

住所

埼玉県羽生市

【由来】諸説あり。

1.市内の神社にある懸仏に、天正18年(1590年)
太田埴生庄との
銘があり、埴(はに、赤土の意)が生(う、多いの意)であることを表していると
いわれている。

2.埴輪が出土していることから埴輪が転訛した説。

羽生という地名が出てくるのは文明10年(1478年)の太田道灌の手紙に「武州羽生の嶺にたてこもり」と
書かれているのが最初と
羽生市の歴史」では書かれて
いるが、一方wikiでは、「鎌倉大革紙」に、長尾景春
文明10年(西暦1478年)に羽生の峰に陣取ったことが
記されている、とある。

調べると当時、両者は「長尾景春の乱」で相まみえていたので、
この時の記録と推測できる。

また、「小田原旧記」には、武州羽丹生城代中条出羽守との記載があり、
埴生、羽生、羽丹生の三種が
今まで用いられていた。

「羽生・埴生」の名字の由来

羽生市 – Wikipedia

羽生市の歴史 | 羽生市

女影(おなかげ)

住所

埼玉県日高市女影

【由来】

「略・村内に千丈ヶ池と伝地ありて、往古せんと
伝ひし女此池に
身を投て死せしが、その後彼女の
影時として池中にあらはれしかば、
土人これを女影と
呼びしより、村名も起こりしといへり、

最妄誕の説なることは歯牙を待ずして知られなり・・・」

上記を現代語訳すると

「千丈ケ池(現在の、仙女ケ池といわれている)に
「せん」という
女性が身を投げた。

その後、この池からせんの幽霊の影が映るとされ、

「女の影」から「女影」の地名となったとされる。」

日高・女影氏館跡付近

飯能・日高むかしむかし=女影(おなかげ)里哀話・1(1/5) : 高橋さんの写真館(分館)

外国府間(そとごうま)
内国府間(うちごうま)


住所

埼玉県幸手市外国府間
埼玉県幸手市内国府間

【由来】

「コウマ」とは河間の地の意味。

外国府間内国府間は元来一村 だったとみられるが、
慶安2~3年頃
(1649~1650)の『武蔵田園簿』 では、すでに外・内に分かれている。

※河間の意味が分かりません、知ってる方、教えてください。お願いします。

文化化遺産保存公開日誌誌抄 文化遺産保存公開日誌抄 … – 幸手市役所 参照

 

高麗(こま)

住所

埼玉県日高市高麗本郷

【由来】

716年に朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた
高句麗からの渡来系移民1799人を武蔵国の一部に
移し、高麗郡を設置したとされます。

また、『倭名類聚抄』(931年 – 938年)には高麗郷
(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷
(現在の飯能市北東部)の二郷の名が記されており、
郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民(国が滅びて
残った民)が、上総郷には上総国からの移民が
配置されたものと考えられている。

高麗郡 – Wikipedia

三芳(みよし)

住所

埼玉県入間郡三芳町

【由来】

伊勢物語の「三芳野の里」からとられており、洪積台地の原野を「三芳野」という美称で呼んだものだという。

三芳町 – Wikipedia

毛呂(もろ)

住所

埼玉県入間郡毛呂山町

【由来】諸説あり。

1.『埼玉県地名誌』(韮塚一三郎著)に

「モロはムラの転であるから村落の意味。
〝諸 もろ〟という字と同じ語源である」

の説。

2.出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)に伝わる
臥龍山宮伝記』(がりゅうざんきゅうでんき)の中に

「毛呂は、諸・師などの字の意味がある。
臥龍山は毛呂郷から少し離れたところにあり、諸々の氏子を見守っている。
このことから、諸々の氏子の諸から地名になった」

説。

3.渡来人が使った高句麗語「MODO(多くの・
もろもろの)」という言葉が「毛呂」に転訛した説。

4.新説としては『万葉集にある「三毛侶之
(みもろの)』という表記が「毛呂」に関係している説。

この「三毛侶」とは「神が降臨して宿る神聖な場所」と
いう意味。

毛呂山町Adobe PDF) – htmlで見る 参照

越生(おごせ)

住所

埼玉県入間郡越生町

【由来】諸説あり。

1.鎌倉時代越生郷に由来し、峰の腰の意味。

2.「驕る瀬」。「水流が翻弄し、溢れる地」の説。

3.平野と山地の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければ
ならない。

それに由来した『尾根越し(おねごし)』の
『尾越し(おごし)』という言葉が転訛した説。

これが有力視されており、越生町ではこれのみを紹介している。

「越生」の地名の由来

越生町とは?/越生町ホームページ

如意(ねおい)

住所

埼玉県入間郡越生町如意

【由来】

行基作と伝える如意輪観音を安置する新義真言宗如意寺によると伝え、本来の読みは「にょい」という。

「如意」の地名の由来

蚊斗谷(かばかりや)

住所

埼玉県比企郡吉見町蚊斗谷

【由来】

新編武蔵風土記稿によれば、元々、蒲(ガマ)が多い
原野だったが、それを刈り取って開墾したので蒲刈
(読みはガマカリヤ?)と呼ぶようになり、後に表記を
蚊斗谷と改めたのだという。

吉見領囲堤

風布(ふうぷ)

住所

埼玉県大里郡寄居町風布

【由来】諸説あり。

1.山に囲まれた地形のため、暖かい空気が空中に漂い、
風が布を引いた様になる現象が見られることから
付いたものと言われている。

2.フウプ(あるいはフップ)はアイヌ語とも
言われているが、それ以上のことは不明。

風布の里Profile

風布 ( 散歩 ) – 五里霧中 – Yahoo!ブログ

百間(もんま)

住所

埼玉県南埼玉郡宮代町百間

【由来】諸説あり。

1.田宮時高の田宮太田考に

 「百間の称号は行基に始まると云う。行基の舟より上り玉へし所に地蔵尊を安置し、舟山地蔵 と云う。

亦、行基が靴を掛け玉へしとて靴掛地蔵とも云えり。
行基是より上陸し玉へ出土ヶ原 にて神外の地を計らしめ其間、百間ありたりとて百間の里と云ひ、初めしとぞ。」

現代語訳には自信がないが、

行基が船で当地に上陸した所に地蔵尊を安置し、
名は船山地蔵と言う。
また、行基が靴を掛けたため、靴掛地蔵とも言う。

行基が上陸した所から神外の地まで計ると、
百間あったため百間の里と言う。」

と言う感じだと思う。

2.アイヌ語由来とされるが諸説ある。

(1)語源のアイヌ語は不明だが、意味は
「池沼水沢の低地」の説。

(2)アイヌ語の「モ」(静かな)、「マ」(湖沼)の説。

郷土史料「百間史料」 | 埼玉県宮代町公式ホームページ

ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム

埼玉県の地名集

宮代町百間(もんま)の地名のいわれを知りたい。アイヌ語だと聞いたことがある。 | レファレンス協同データベース 

 

 番外編

プラザ(ぷらざ)

住所

埼玉県さいたま市西区プラザ

【由来】

『井戸尻』と呼ばれた低湿地を埋め立てて、昭和47年に
民間デベロッパーが『プラザ』と命名して売り出したことに由来し、
昭和59年から現行表示となっています。

さいたま市内の、「プラザ」という地名について、なぜこのような地名なのか知りたい。 | レファレンス協同データベース

田面沢(たのもざわ)

住所

埼玉県入間郡にあった村

【由来】

伊勢物語

「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」

の歌から来ている。

初冬の田面沢(たのもさわ)を逍遥 | シニア・ナビブログ「koyampiの旅行、学びエトセトラ」の記事

田面沢村 – Wikipedia

鉦打町(かねうちまち)

住所

埼玉県川越市連雀町明治40年までは「鉦打町」と言っていた。

【由来】

「本阿弥陀仏」という坊さんがこのあたりに住み、
朝晩に鉦(しょう)を叩いたからだという。

★本阿弥稲荷(連雀町) ( 埼玉県 ) – ★川越スケッチブック-埼玉都民の川越暮らし – Yahoo!ブログ

本阿弥稲荷神社 | 川越の観光・お出かけ情報 カワゴエール

十二月田(しわすだ)

住所

※住所地名としては消滅。交差点・学校名などに残る。

例:十二月田交差点

地図・アクセス情報 : 十二月田交差点 [埼玉県川口市末広] – Yahoo!ロコ

【由来】

 『新編武蔵風土記稿』の

「十二月田(しわすだ)村 十二月田村は昔十二月晦日狐来りて、杉葉を以て田を植るさまをなせしより、
此村名起れりと云奇怪の説なり」

から来ている。

上記を参考サイト様で現代語訳すると

「昔この村には12月の大晦日の日に狐がやってきて、
杉の葉で田植えをする真似をしたということから、
十二月田という村名が起こったという話である」

コレ読める?「十二月田」。埼玉県川口の珍地名、その奥深い由来 | 谷川彰英の「地名の由来を歩く」

「十二月田」の地名の由来

 征矢町(そやちょう)

住所

埼玉県飯能市征矢町

【由来】下記の由来は可能性として読んでほしいです。
私的に他の難読地名の由来より信憑性が弱いからです。


1.※前ケ貫の地名の起こりに征矢神社の起こり?も
出てくる。

将門が岩淵の八幡神社のあたりから三本の征矢(そや)を
放ち、戦勝を祈願したといわれ、そのうちの一本が前の
山をぬけて前ヶ貫の地に落ち、それを征矢神社として
祀り、前ヶ貫の地名の起こりとなった説。

2.※征矢神社の由来、1とは違う。

征矢神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊
東夷征伐のために下向した際、当地に千束の征矢を備えて戦勝祈願を行ったことに由来。

その後天慶の乱に際して、将門追討のために下向した
六孫王基経が、その旧跡を拝し、日本武尊誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられるといいます。

In the Eyes of Ghosts

征矢神社。飯能市征矢町の神社

生出塚(おいねづか)

住所

埼玉県鴻巣市上生出塚

【由来】生出塚神社の由来(一部)

生出塚(おいねづか)という地名の由来は定かではないが、日本書紀安閑天皇元年(534年)に記述のある
武蔵国造の乱において当地の豪族笠原直使主
(かさはらのあたいおみ)と争った同族の、笠原小杵
(かさはらのおきね)と関わりのあることが推測される。

この小杵を葬った古墳がこのあたりにあり、小杵塚
(おきねづか)と称していたのが、いつの頃よりか
「おいねづか」となり、現在の「生出塚」という字を
あてるようになったのではないか。

鴻巣生出塚神社|古社への誘い 神社散策記

箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)

住所

埼玉県東松山市箭弓町2-5-14

【由来】

元は野久稲荷神社であったが、社記によると、平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、近隣諸国を制圧し、大群をもって武蔵の
国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきました。

朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に
当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が
野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、
明け行く空に箭(矢)の形をした白雲()が
にわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで
行きました。

頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち
敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍は
あわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が
勝利しました。

帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、
ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を
箭弓稲荷と改めて呼ぶようにと里人に命じたのでした。

 白雲以外には白狐に乗った神が弓矢を授けた説も
ある。

御由緒|埼玉県東松山市 箭弓稲荷神社

箭弓稲荷神社 (東松山市) – Wikipedia

入西(にっさい)

住所

過去に埼玉県入間郡に存在した村

【由来】

1200年前の奈良時代入間郡に住んだ高麗人たちが
入間川高麗川に沿ってその郡域を広めたために、
鎌倉時代には入間郡を2つにわけ、東を入東郡、
西を入西郡と称したことから。

市指定無形民俗文化財「入西くどき」を学ぶ

入西村 – Wikipedia

おしゃもじ山公園

住所

埼玉県比企郡鳩山町大字赤沼

【由来】

杓子母神(おしゃもじ様)が祭られているほこらがふもとにあることから。

おしゃもじ山公園/鳩山町ホームページ

おしゃもじ山公園(埼玉県比企郡鳩山町) | 埼玉なび

波久礼(はぐれ)

住所波久礼の地名は見つからず、駅名のみ確認できる。

波久礼駅は、埼玉県大里郡寄居町大字末野にある秩父鉄道秩父本線(秩父線)の駅

【由来】諸説あり。

1.新編武蔵風土記稿に「下破崩」、ながとろ風土記に「下端崩」の記述がある。

この名が付いたのは、この辺りにに急斜面の崖が多かったからという説で、最も有力とされる。

2.埼玉三大窯跡群の末野窯跡群が近くにあることに
ちなんで
『埴塊(はにくれ)』が転訛した説。

3.養蚕(ようさん)が盛んであったため、絹織物を意味する
「呉服(くれはとり)」(ごふくの古語)から来た説。

4.波久礼駅の近く「葉暮」と言う名の橋があり、
関係してる可能性。

地元の方は

「昔、ここで道が途切れていて、よく人がはぐれたからと
聞いたことがある」

と言っている。

ちなみに「はぐれ」に「波」をあてたのは脇を流れる
荒川が、風で波立つ様を表しているとされる。

地名を歩く! ~波久礼(寄居町)~ – 寄居町を元気に!寄居町商工会ブログ-経営革新、創業支援、マル経、農商工連携、乙姫ちゃん、風布みかん-

埼玉以外の関東地方の難読地名

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日本の難読地名と由来~群馬編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として残っているのを紹介しています。

群馬県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
住所に残ってないのや温泉の由来などを紹介しています。

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群馬県の難読地名と由来

橳島(ぬでじま)

住所

群馬県前橋市橳島

【由来】サイトによって多少違うのでどちらも掲載。

1.地元では豊城入彦命が東征した時、「ぬるでの木」で采配を振って
指揮し大勝を得たので、「ぬるで」に
「勝軍木」の文字を付けた。

それにちなんで、この土地を「勝軍木(ぬるで)島」と
呼び、
これを短くして「橳島」とした。

なお、「ぬで」は「白膠木(ヌルデ)」の略称。

2.橳島の由来 

むかし、武士同士がけんかした。負けたほうの武士が
ここへ逃げてきた。

そのころ、ここが島になっていた。
その武士の持っていた軍配の柄がぶっきられていた。

それで、山の中へ入ってヌ ルデという木をとって柄に
つけた。

そしたら、追っ手がやってきた。
それでまたこの武士たちは戦った。

ヌルデの柄をつけた軍配で指揮して残ったら、今度は、
はじめに
負けた方の武士が勝った。

ヌルデの柄をつけた軍配で勝つことができた。
そこが島であったとい うので、そこの地名を、ヌルデとよんだ。

ところが、あとになって、いつのまにか、ヌデジマというように
なったのだという。

ヌルデの木のおかげで戦に勝ったので、橳という字とし、

それをヌルデ(ヌデ) とよんだものという。

 ぬで島 – Wikipedia

「橳」の異体字に関する一考察 参照

女屋(おなや)

住所

群馬県前橋市女屋町

【由来】諸説あり。

1.前九年の役の帰路、源義家八幡太郎義家)の軍勢が

この地にしばし留まった。

兵士たちを目当てに女二人が酒屋を開いて
たいそう賑わった。

女酒屋を女屋と呼ぶようになり、地名にもなったという。

2.上杉氏の末孫の本間某の娘二人が、
この付近で
女酒屋を開き、その名は近郷近在まで広まった。

前橋市の坂-2: 坂道散歩

檜物町(ひものちょう)

住所

群馬県高崎市檜物町

【由来】


「檜物」とは、檜(ひのき)や松などから薄く削り取ったものを曲げて作る「曲げ物」のことで、当時、食器や
勝手用品として
かかせないものでした。

町名は檜物師という、「檜物」を作る職人が

多く住んでいたことから命名された。

http://www.npogunma.net/shouto-takasaki/district/2_walk/1_chimei_05na_ma.html

間野谷(あいのや)

住所

群馬県伊勢崎市間野谷町

【由来】

北と南にそれぞれ部落があり、この北と南の野の
出合う所の谷という
意味が由来。

マーチィ’s ROOM – 群馬県 参照

八斗島(やったじま)

住所

群馬県伊勢崎市八斗島町

【由来】

【簡略版】

境野八斗兵衛宗澄が稗島と呼ばれた所を開拓し、当時の
領主に
謙譲したところ、稗島は村に格上げとなり、
開拓した里長である
八斗兵衛宗澄の顕彰の意を含めて
八斗島と名づけられた。

【詳細】(境野家由来之碑)

桓武天皇の子の平城天皇の子孫の大江音人の子孫の
大江朝臣廣元の後裔の大江主水正吉澄が

境野と始称し、境野家の元祖となりました。

その子で、那波城主小姓組頭の境野隼人宗廣の末子
境野八斗兵衛宗澄は、仕えていた那波城主が
天正十八年の「奥州九戸の戦い」(注1)で討ち死にしたため帰農しました。

境野八斗兵衛は利根川と烏川の合流点に近い中州草原地で
稗島と呼ばれた所を開拓し、新しく領主となった

酒井雅楽頭忠清(注2)に慶長六年に差し出したところ、
稗島は村に格上げとなり、開拓した里長である
八斗兵衛宗澄の顕彰の意を含めて八斗島と
名づけられました。


これは今から400年前のことである。


(注1)九戸政実の乱」は、天正18年ではなく、天正19(1591)年に、南部氏の親族にして家臣団の1人で
あった九戸政実が、豊臣秀吉による
「奥州仕置」に反旗を翻し、本拠地の九戸城(岩手県二戸市)に篭城を敢行した
ようです。 

(注2)
酒井家と那波藩について調べたところ、九戸の乱(1591)で討ち死にした
那波氏のあとにできた那波藩の初代藩主は松平家乗ですが、家乗は慶長6年(1601)に美濃国岩村藩に加増移封となりました。

その後慶長6年(1602)に新しく那波城主となったのは

武蔵国川越藩から来た酒井忠世です。

八斗兵衛は五十嵐無兵衛と共に五社稲荷神社を祀った
ところ、
衆人が集まり現在の八斗島町となりました。

八斗兵衛の次男庄治吉隆は、九戸の戦いで滅んだ

那波城主一族を弔うため出家し、伊勢崎の同聚院住職と
なりました。

その後、福井県大本山永平寺三十二世(三十三世)大和尚
(勅特賜覚海智圓禅師山陰徹翁大和尚)となり、
元禄十三年に八十二歳で卒しました。

山陰徹翁大和尚は、寛永・元禄の年代に
徳川光圀に請われ、参禅の師に応じました。


忠清が雅楽頭(うたのかみ)の職についたのは慶長12年(1607)であり、忠清が那波城主を継いだのは寛永14年(1637)年なので、八斗兵衛さんが開拓地を差し出した
当時の藩主は、忠清ではなく、
おそらく酒井忠世だと
思われます。

八斗島の八斗兵衛さん – 伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

本動堂(もとゆるぎどう)

住所

群馬県藤岡市本動堂

【由来】

仁治元年(1240年)夏4月、武蔵国の住人、
津戸三郎為守が
木曽の郷戸の駅に泊まり、その夜
不思議な夢を見た。

手につぼみのハスを持ち、身には陣羽織をまとい、足にはかぶとをはいた、姿のかわった聖者が、為守に向かって、


「おまえ、あすになったならば、われを東路に連れて参れ。
縁のある地に行けば、必ず重くなるであろう」

と申された。

目が覚めてから、不思議なことに思って、近くのきこりに

夢の話をしたところ、きこりは、

「和語坂の観音様は巴御膳の守本尊でございまして、
夢に現われたとおりでございます」

と答えた。

為守は、霊夢のとおりであるので、さっそく尊像を背負い

東国に向かって下ったのである。

どこが縁ある土地であろうかと鎌倉街道に下り、上野国緑埜郡鮭塚
(社家塚)の原まで来たところ、尊像は大きな
岩のように重くなった。

そこで、鮭塚に寺を建て尊像を安置した。

これが本動堂(もとゆるぎどう)の始まりである。

為守はずっと以前建久6年(1195年)3月22日に

法然上人の法弟となって、尊願法師といっていたので
ある。

この聖観音は霊験があらたかであって、例話は非常に
多い。


ある年、春から秋になるまで日照りが続いて、田畑は
ほとんど
枯れ野のようになってしまった。

近郷の農夫たちは、いたたまれなくなって、お堂をとり
巻いて皆一心に


「雨を降らしめたまえ」

と尊像に祈ったのである。真心はついに仏に通じた。

ぐらぐらとお堂は揺れ、その音は鏑矢(かぶらや)を射るようであり、
まさに「甘露の法雨」である。

このために飢えにも、渇(かわ)きにも苦しむことは
なかった。

このことがあってから、当時の人々は、「動堂本尊」と呼び、
この土地を動堂村(ゆるぎどうむら)というように
なったのである。

それから数代を経過して、紫衣を賜った高僧幡隋上人が
通行され、
観音の霊験や尊願法師の旧跡をしのび、何日間もありがたいお経の講話をされ、近郷近在の男も女も
喜んで拝聴するのであった。

草木もなびくと、たとえられようか。


このころ、藤岡の城主は芦田修理太夫幸正であり、
上人に深く帰依しておった。

天正19年(1591年)に当初あった場所から南方に
2.5㎞離れた、
藤岡に寺地や黄金を寄付して、尊像も
お堂もすっかり移したのである。

これが現在(古桜町)の藤岡山尊願院一行寺である。


そして寺の東西の通りを動堂通りと称し、初めに尊像を
安置した動堂村に「もと」をつけて、本動堂
(もとゆるぎどう)と呼ぶようになった。

本動堂の縁起 ( 群馬県 ) – 南八幡の案内人 – Yahoo!ブログ

神流(かんな)

住所

群馬県多野郡神流町

【由来】町を流れる神流川に由来する。
神流川の由来については諸説ある。


1. 神(カム)の川が神名に転じたことに由来している。

感納川、甘奈とも綴られ、古くはカミノ川といわれた。


というのは、武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から
流れる川の意と言われている。

2.髪長川(廻国雑記)・賀美野川(川越記)などとも
書く。


川名の由来は、カンナ=鉄穴(かんな)の意で、
砂鉄の採集地に与えられた名であるという。

また、伝承によると、日本武尊が上流で弟橘姫の遺髪を流したので、
髪流川と呼ばれるようになったという。

3.原始的製鉄法による鉄穴(カンナ)で砂鉄と木炭と
を交互に
粘土製の炉に入れて焙焼する法。

「かんな」川の流域は製炭用の原木に満ちているので、
この名があるのであろう。

4.神流川は緑野郡(群馬県にあった郡)賀茂郷の奥より流れ出るため、

カモノカワ、カムノカワ、カンナと転訛した可能性。

日本の川 – 関東 – 神流川 – 国土交通省水管理・国土保全局

神流川周辺の「神」地名-2 | おぢさんの覚え書き – 楽天ブログ

神流川周辺の「神」地名-3 | おぢさんの覚え書き – 楽天ブログ

 

 魚尾(よのお)

住所

群馬県多野郡神流町魚尾

【由来】

かつて日本武尊ヤマトタケルノミコト)が東征の途中、空腹と疲れで神流川の真ん中に座っている「丸岩」と
呼ばれる奇岩付近で休んでいた際、村人が献上した麦飯と鮎を大いに喜んで魚の尾まで食べ

「この地を魚尾と称すべし」

と言われた伝説によるもの。

自衛隊群馬地方協力本部:本部長の群馬紀行

乙父(おっち)

住所

群馬県多野郡上野村乙父

【由来】

木曽義仲の四天王、今井四郎兼平の遺児が郎党と乳母に
付き添われて当地にたどり着いて住みつき乳母が乙母へ、郎党(男子)が乙父に土着したことによるといわれる。

また一族が落人として逃れて来た地が乙父であり、
お供として来た者の住みついた地が乙母であるとも
伝承される。

乙父・乙母ともに今井姓が多い。

「乙父」の地名の由来

乙母(おとも)

住所

群馬県多野郡上野村乙母

【由来】

木曽義仲の四天王、今井四郎兼平の遺児が郎党と乳母に
付き添われて、当地にたどりつき住みついたという伝説がある。

郎党の住んだところが乙父(おっち)、乳母の住んだところが乙母であるといわれる。

乙母・乙父には今井姓が多い。

また、オトモは川が乙の字なりに曲っているところを
指したという説もある。

さらに、アイヌ語説もあるが、いずれも定かではない。

「乙母」の地名の由来

嬬恋(つまごい)

住所

群馬県吾妻郡嬬恋村

【由来】

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の東征中に、海の神の怒りを静めるために
愛妻「弟橘姫(おとたちばなひめ)」が海に身を
投じました。

その東征の帰路、碓日坂(今の鳥居峠)にお立ちになり、亡き妻を追慕のあまり「吾嬬者耶(あづまはや)」
(ああ、わが妻よ、恋しい)とお嘆きになって
妻をいとおしまれたという故事にちなんで
嬬恋村と名付けられた。

嬬恋村紹介

邑楽(おうら)

住所

群馬県邑楽郡邑楽町

【由来】諸説あり。

1.邑楽(おうら)」は、古くは
「於波良岐(おはらぎ)」。

茨城と同義で、「オ(接頭語)・ハラ(原)・ギ
(場所を示す接尾語)」
→「オフラ」→「オウラ」と転じた説。

2.野原に多くの木が茂っていたことから

「オハラギ(大原木)」とする説。

3.「オハ(崖地)・ラ・ギ(場所を示す接尾語)」の
意とする説。

4.「開墾地」の意味であるオホアラキから来ていると
いう説。

邑楽

邑楽町|群馬県

鶉(うずら

住所

群馬県邑楽郡邑楽町

【由来】諸説あり。

1.建久年間、足利義兼が鎌倉から足利へ向かう途中
鶉を捕らえさせ黄金の指籠に飼ったが、夢のお告げで放鳥し、のちに高い地位を得たといういい伝えがある。

地名はこのいい伝えにちなむ。

2.足利尊氏が当地で雉狩りを行った際に、鶉の雛鳥を
捕獲して金の鳥籠に入れて持ち帰ったことからきているとされる。

関東地方の難読地名一覧 – Wikipedia

自衛隊群馬地方協力本部:本部長の群馬紀行

狸塚(むじなづか)

住所

群馬県邑楽郡邑楽町狸塚

【由来】諸説ある。

由来の前にタヌキとムジナは動物学的には同じとされています。
根拠となった事件。

たぬき・むじな事件 – Wikipedia

ここから狸塚の由来

1.狸塚にはタヌキが塚に穴を あけて住んでいたので
「狸塚」と呼ぶようになったとしています。

しかし、タヌキはつい最近まで人家に近い山林にはどこにも住んでいましたから、あまりあてになりません。
(サイトによっては有力とされる)

2.こんな話があります。集落の人家の雨戸を決まって
たたく者がいました。

家の人が出てみると誰もいません。

これはきっとタヌキのいたずらだろうということになり、若者たちが申し合わせて、何者かが雨戸をたたく時刻に
待ち伏せをしました。

すると、タヌキが出てきて尻尾で雨戸をたたいています。
若者たちは一斉にタヌキに飛び掛かりました。

タヌキはとっさに、近くの阿弥陀堂の中に逃げ込んで
しまいました。

御堂には本尊様が安置してありますが、なんとまったく
同じ阿弥陀様が二体になってしまいました。

そこで若者たちは、タヌキをいぶり出すことにしました。

始めはどっちがタヌキか、まったく分かりませんでしたが、そのうち煙たくてタヌキがむせび出しました。

そこで、若者たちは「こん畜生」とばかりにどっと押し寄せて、袋だたきにして殺してしまいました。

村人はタヌキのたたりを恐れて高台に埋め、 ムジナ大権現と書いた墓標を建てて、ねんごろに供養を
したといいます。

この高台の塚を村人は「むじなつか」と呼んだので、
これが地名になったといいます。

3.狸塚には、足利から上五箇の渡しを渡って
武蔵国に通ずる道がありました。

ある年、都の人がこの道に差しかかりましたが、長い旅で
疲れ果てていたようです。

村人は 気の毒に思い、丁寧に介抱してあげましたが、旅人の病気は良くならず、死んでしまいました。

何でもその方は貴(とうと)いお人 だったといいます。
村人は村の高台に立派な塚を作って埋葬しました。

貴いお人の塚なので、人々 は貴(むち)の塚 と
呼びました。

ちなみに、貴は神や人を敬っていう古代の名詞で、村人は貴の塚をいつか「貴(むち)な塚」と呼び、やがて
「むぢなつか」と 転化しました。

そして、その人を貴ノ宮 社(木ノ宮社)に祭りました。

あすへひとこと – 邑楽町 参照

古代の邑楽町付観音霊場 – ポポロの広場

群馬県邑楽町の「狸塚(むじなづか)」の名前の由来を教えて下さい。|質問・相談が会員登録不要のQ&AサイトSooda!(ソーダ)

 

番外編

 

黒保根村(くろほねむら)

住所 

廃村 現在は黒保根町宿廻(くろほねちょうしゅくめぐり)辺りと
思われる。

【由来】

万葉集の和歌


  「賀美都家野 久路保乃禰呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良爾 
伊夜射可里久母」


  (かみつけぬ くろほのねろの くずはがた かなしけこらに 
いやさかりくも)

  にちなんでいる。

  1市2村プロフィール


治良門橋(じろえんばし)

住所

太田市成塚町1024

【由来】治良門橋駅の由来

江戸時代初期の篤志家・天笠治良右衛門が
用水路に石橋を架けたという言い伝えに由来する。

れとろ駅舎 治良門橋駅

www.retro-station.jp

治良門橋駅 – Wikipedia

治良門橋駅 | 路線図・駅情報 | 東武鉄道

老神温泉(おいがみおんせん)

住所

群馬県沼田市利根町老神

【由来】

老神温泉に伝わる伝説によれば、その昔、赤城山の神
(大蛇)と日光男体山(二荒山)の神(百足)とが
今の戦場ヶ原で領地争いをしました。

お互いに蛇と百足とに化けて激しく戦いましたが、 蛇になった赤城の神は矢傷を負ってしまいました。

傷を負った赤城の神は、後の老神の地まで戻り、
矢を抜き、地面に刺しました。

すると温泉が湧いたのです。

湧き出た温泉に浸かった蛇はみるみる傷が 治癒し、
すぐに元気を取り戻して見事百足を追いやりました。

男体山(二荒山)の神を追い払ったことから、その温泉は
「追い神(追神)」と呼ばれるようになり、赤城山の神は
温泉で老いるまで過ごしたので「老神」といわれました。

上記の伝説には他にも諸説ある。

1.赤城山の神がムカデ・二荒山の神が大蛇という説で
実はムカデが勝利したという説。

2.最後にムカデ神を追い返した時に大蛇神には助太刀がいたという説
(この助太刀は、野山に住む神獣・白猿・白雉・白鹿・白蛇
その他といわれている)。

3.大蛇神が傷を負ったのは眼で、追い払うときに
ムカデ神の眼に矢を射た。

4.この伝説はこの地方の貴族や豪族、有力者の争いを
神権化したものという説。

5.大蛇神は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の子孫・眷属・同神族であるという説。

老神温泉(おいがみおんせん)大蛇まつりと大蛇のご紹介

老神温泉の伝説 | 群馬県赤城山ポータルサイト

老神温泉 – Wikipedia

八ッ場(やんば)

住所八ッ場ダム建設予定地のため、予定地の住所と思われるのを記載。

群馬県吾妻郡長野原町大字川原畑字八ッ場

【由来】諸説あり。

1.狭い谷間に、獲物を追い込んで、矢を射た場所
「矢場(やば)」が転じ、「やんば」となった説

2.狩猟を行う場所に8つの落とし穴があったことから、
「8つの穴場」→「やつば」→「やんば」となった説

3.川の流れが急であることから、「谷場(やば)」が転じ、「やんば」となった説

八ッ場ダムの概要 | 八ッ場ダム工事事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

 八ッ場ダム – Wikipedia

八ッ場ダムの名前の由来? – 樹の声が聞こえる

六合(くに)

住所吾妻郡六合村は合併により、吾妻郡中之条町になっています。

群馬県吾妻郡中之条町

【由来】

小雨、赤岩、生須、太子(おおし)、日影、入山の「六つ」の大字が「合わさる」ということで、「六合」の名が付きました。

「六合」を「くに」と読む理由

古代東洋では、世界は東西南北及び天地の六面で
構成されたサイコロの内側のようなものだと
考えられていました。

六つの面が合わさっているので、世界のことを
「六合(りくごう)」とも呼びました。

同じく世界を意味する「天下」「四海」「八紘」と同様で、「六合」もしばしば「国」の意味をもって使われ、
古事記上巻序文の
「乾符を握って六合を総べ」、日本書紀神武天皇即位の
くだりのすぐ前の「六合を兼ねて以って都を開き」に
おいても「六合」は「支配の範囲=国」の意味で
使われています。

このことから「六合」を「くに」と読み、
六合村」を「くにむら」と読んでいます。

六合村 (群馬県) – Wikipedia

六合地区観光情報: 六合の名の由来

群馬以外の関東地方の難読地名

kasibaka.hatenablog.com

kasibaka.hatenablog.com

kasibaka.hatenablog.com

kasibaka.hatenablog.com

 

 

日本の難読地名と由来~北海道編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、説話として
残っているのを紹介しています。

目次の北海道の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
現在地名として残ってない確たる由来は不明などを紹介しています。

また、今回の難読地名と由来は長いので、見出しで区切って紹介しています。

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北海道の難読地名と由来(1)


茨戸(ばらと)

住所

北海道札幌市北区東茨戸

【由来】

アイヌ語でパラ・ト(広い・沼)に由来。

茨戸 – Wikipedia

バラト[札幌市北区茨戸](北海道) – 千年村プロジェクト

簾舞(みすまい)

住所

北海道札幌市南区簾舞

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ニセイオマップ」から来ており、意味は「渓谷にある川」。

それが訛って「ミソマップ」と呼ばれるようになり、
さらに
「簾舞」という漢字が当てられた。

日本語読みに当てた漢字「簾」一字を以って「みす」と
読ませている
語源は「御簾(みす)」から来ている。

明治期、この地域にある豊平川の一つの支流が滝のようになっている様が、そう例えられたためであるという説が
有力である。

簾舞 – Wikipedia

2.アイヌ語の「ニセイオマプ 」から来ており、意味は「絶壁の所 」。

「ニセイオマプ」が訛って「ミソマツプ」と言い、

最終的に「ミソマップ」や「簾舞」となったとされる。

また、簾舞付近では地名の由来になった「絶壁の所」は

それほど見えないが、豊平川の川崖のこととされる。

ミスマイ[札幌市南区簾舞](北海道) – 千年村プロジェクト

 発寒(はっさむ)

住所

北海道札幌市西区発寒9条

【由来】

アイヌ語の「ハチャム・ペッ」

(サクラドリ《ムクドリ》いる・川)からきていると
いわれている。

 地区別の歴史/札幌市西区

 発寒 – Wikipedia

椴法華(とどほっけ)

住所

函館市椴法華地区(旧椴法華村

【由来】

アイヌ語の「トトポケ」から来てるとされ、
意味は「岬の陰」。

椴法華村 – Wikipedia

東消防署 椴法華出張所<椴法華地名の起源> | 函館市

 忍路(おしょろ)

住所

北海道小樽市忍路

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「オショロ・コッ」(尻のような窪み)の説。

2.アイヌ語の「ウショロ 」(湾,入江の意) の説。

 忍路 – Wikipedia

忍路(おしょろ)とは – コトバンク

オショロ[小樽市忍路忍路](北海道) – 千年村プロジェクト

神居古潭(かむいこたん)

住所

北海道旭川市神居町神居古潭

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「カムイコタン」(神の住む場所)の
音意訳の説。

2.知里真志保の「アイヌ語学」によると、

アイヌ語の「カムイ」は、古くは「悪魔」の意味。

従って「カムイコタン」は、「悪魔のいるおそろしい
場所」とする説。

 神居古潭 – Wikipedia

 「神居古潭」の地名の由来

 カムイコタン[旭川市神居町神居古潭](北海道) – 千年村プロジェクト

大楽毛(おたのしけ)

住所

北海道釧路市大楽毛

【由来】

アイヌ語の「オタ・ノシケ」(砂浜の中央)。

大楽毛(おたのしけ)とは – コトバンク

大楽毛駅 – Wikipedia

幣舞(ぬさまい)

住所

北海道釧路市幣舞町

【由来】

アイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」

( 幣場《神前に供える幣帛》の・ある・ところ」。

この場合、アイヌの祭具である「イナウ」を捧げたと
される。

幣舞橋 – Wikipedia

ヌサマイ[釧路市幣舞町幣舞](北海道) – 千年村プロジェクト

 イナウ – Wikipedia

馬主来(ぱしくる)

住所

北海道釧路市音別町馬主来

【由来】

アイヌ語の「パシクル」(カラス)から来たとされる。

馬主来(ぱしくる):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

海とわかれたりつながったり。美しい響きをもつ「パシクル沼」の秘密 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

相内(あいのない)

住所

北海道北見市相内町

【由来】

アイヌ語の「アイヌ・オ・ナイ」(人の多くいる沢)が

転訛したものとされる。

相内神社/北海道北見市(Ainonai Jinja,Kitami Hokkaido Japan) – 北海道の神社と狛犬

アイヌ語地名の傾向と対策 (228) 「相内・北見・シュブシュブナイ川」 – Bojan International

北海道の難読地名と由来(2)

 

幌向(ほろむい)

住所

北海道岩見沢市中幌向

【由来】アイヌ語のポロモイ(ないしはポロ・モイ)の
転訛とされるが、意味は諸説あり。

1.「大きい川が曲がっていて水がゆったり流れるところ」の説。

2.「大きな淀みのある川」の説。

3.「大いなる薮」の説。

4.「大きな渦ができて鮭や鱒のよく集る場所」の説。

幌向駅 – Wikipedia

–yŒü‚Ì•à‚Ý

野幌(のっぽろ)

住所

北海道江別市野幌町

【由来】

アイヌ語の「ヌポロペツ」(野中の川)に由来。

野幌(のっぽろ)とは – コトバンク

渚滑(しょこつ)

住所

北海道紋別市渚滑町

【由来】

アイヌ語の「ショ・コツ(ないしはショーコツ)」
(滝壺)に由来。 

渚滑駅 – Wikipedia

中渚滑駅 – Wikipedia

下渚滑駅 – Wikipedia

奔別(ぽんべつ)

住所

北海道三笠市奔別中の沢町

【由来】

アイヌ語の「ポンペッ」(小さな川)に由来。

【よくぞ残してくれました】三笠市 奔別(ぽんべつ)炭鉱跡 | 北海道バンザイ

温根沼(おんねとう)

住所

北海道根室市温根沼

【由来】

アイヌ語の「オンネトー」とされ、意味は(奥深い沼)
あるいは
(年老いた沼) に由来。

温根沼(おんねとう)とは – コトバンク

オンネトー – Wikipedia

 

珸瑶瑁(ごようまい)

住所

北海道根室市珸瑤瑁

【由来】

アイヌ語の「コイオマイ」(波の中にある所)に由来。

「珸瑤瑁」根室半島にある地名…読めますか?: 北海道へようこそ!

珸瑤瑁(ごようまい):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

納沙布(のさっぷ)

住所

北海道根室市納沙布

【由来】

アイヌ語の「ノッ・サム」(岬の傍ら)に由来。

本来は岬の傍らにあった集落の名前。

納沙布岬 – Wikipedia

アイヌ語地名の傾向と対策 (86) 「納沙布・温根元・トーサムポロ」 – Bojan International

穂香(ほにおい)

住所

北海道根室市穂香

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ポン・ニ・オ・イ」(小さい・木片あるいは寄り木・多い・所)に由来。

2.アイヌ語の「ポニオイ」(小蛇多い所)に由来。

アイヌ語地名の傾向と対策 (84) 「幌茂尻・穂香・根室」 – Bojan International

歯舞(はぼまい)

住所

北海道根室市歯舞

【由来】

アイヌ語の「ハ・アプ・オマ・イ」

(流氷が退くと小島がある)に由来。

歯舞群島とは? – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

北方領土 歯舞群島(はぼまいぐんとう) – 真実の日本

歯舞群島 – Wikipedia

幌美内(ほろぴない)

住所

北海道千歳市幌美内

【由来】

アイヌ語の「ポロピナイ」(大きな涸れ沢)に由来。

北海道の難読地名と由来(3)

 

一已(いちやん)

住所

北海道深川市一已町

【由来】

アイヌ語の「イチャン」(鮭や鱒が卵を産むところ)に
由来。

一已村 – Wikipedia

一已(いちやん):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

富岸(とんけし)

住所

北海道登別市富岸町

【由来】

アイヌ語の「トー・ケシ」(沼の端)に由来。

読めますか!!「一已」「富岸」北海道難読地名ー12:北海道からイランカラプテ:So-netブログ

富岸の読み方: 難読漢字大辞典

稀府(まれっぷ)

住所

北海道伊達市中稀府町

【由来】

アイヌ語の「エマウリオマレプ」(苺のある処)あるいは「エマウリ・オマレ・プ」(イチゴのある沢)に由来。

■北海道の地名の特徴

稀府駅 – Wikipedia

 生振(おやふる)

住所

北海道石狩市生振

【由来】アイヌ語とされるが、意味は諸説あり?

1.アイヌ語の「オ・ヤ・フル」(尻が陸に付く丘)に由来。

2.アイヌ語に由来し、更科源蔵の解釈によれば、
石狩川に沿って
東西に伸びていた丘を指す「川尻の丘」という意味。

北海道土木遺産シリーズ 第1回−生振捷水路(おやふるしょうすいろ)−|コンパネ!〜けんせつPlazaブログ〜|建設総合ポータルサイト けんせつPlaza

石狩ファイル/0110生振の歴史

濃昼(ごきびる)

住所

北海道石狩市厚田区濃昼

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ゴキンビリ」(岩と岩の間つまり山の陰)の説。
浜益村教育委員会によると「滝つぼにしぶきが舞う」の意味

2.アイヌ語の「ボキビル」
(滝壺に水が落ちて沸騰する)の説。

3.アイヌ語の「ポク(下)」+「ウン(そこの)」+「ピル(渦)」の説。

4.ho-kipir で「尻(河口)に・水際からそそり立っている崖」の説。

濃昼(ごきびる):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

「濃昼」の地名の由来

アイヌ語地名の傾向と対策 (25) 「濃昼・厚田・望来」 – Bojan International

聚富(しっぷ)

住所

北海道石狩市厚田区聚富

【由来】

アイヌ語の「シュオプ」(箱)に由来。


知里真志保さんの説では


「両岸が絶壁で川底が岩の箱の形になって青く水をたたえている所」

となるそうです。

聚富(しっぷ):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

アイヌ語地名の傾向と対策 (26) 「無煙・聚富・花畔」 – Bojan International

発足(はったり)

住所

北海道岩内郡共和町発足

【由来】

アイヌ語の「カムイハッタラ」(神淵)に由来する。

これはかつて鮭がこの淵に群集し、熊が来てこの鮭を

獲ったことに由来するとされる。

アイヌ語地名の傾向と対策 (49) 「発足・梨野舞納・岩内・雷電」 – Bojan International

花畔(ばんなぐろ)

住所

北海道石狩市花畔

【由来】

アイヌ語の「パナウンクル」(川下の人《海の族》)に
由来する。

花畔(ばんなぐろ):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

安瀬(やそすけ)

住所

北海道石狩市厚田区安瀬

【由来】

アイヌ語の「ヤソッケ」(網を仕掛ける場所)に由来する。

安瀬(やそすけ):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

長万部(おしゃまんべ)

住所

北海道山越郡長万部

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ウパシサマムペ」(雪・カレイ類の魚)の説。


神が海で大ヒラメを釣り、神として山上に祭らせ、春雪解けの時に、
山にヒラメの形の雪が残るときが漁期だと
教えられた、という伝説がある。

2.アイヌ語の「オサマムペッ」(川尻・横になっている・川)の説。


現在の長万部川を指したもの。川尻が海岸線と並行しているため。

3.アイヌ語の「オサマムペ」(川尻・カレイ類の魚)の説。

カレイのたくさん捕れる河口、の意。
長万部町ではこの説を採る。

長万部町 – Wikipedia

長万部町役場 – 0.プロローグ 『オ・シャマンペ』 解説

北海道の難読地名と由来(4)

 

国縫(くんぬい)

住所

北海道山越郡長万部国縫

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の 「クンネ・ナイ」(黒い・川)の説。

2.アイヌ語の「クンヌイ」(黒い野火)の説。

国縫(くんぬい)とは – コトバンク

国縫駅 – Wikipedia

厚沢部(あっさぶ)

住所

北海道檜山郡厚沢部町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「アッ・サム」(楡皮・のそば)の説。

2.アイヌ語の「ハチャム」(桜鳥)の説。

3.アイヌ語の「ハチャムベツ」 (桜鳥川) の説。

厚沢部町(あっさぶ)とは – コトバンク

厚沢部町 – Wikipedia

歌棄(うたすつ)

住所

北海道寿都郡寿都町歌棄町

【由来】

アイヌ語の「オタ・シュツ」(浜の草原が尽きる砂原に
掛かる辺り)が
由来。

‘砂浜〔の〕根もと’の義。海から上れば砂浜があり、

その砂浜をつっきって砂丘の上に上れば草原がある。

その砂浜が尽きて草原になる辺りを‘砂浜の根もと’と言うのである。

歌棄郡 – Wikipedia

歌棄の神社/北海道寿都町(Utasutsu no Jinja,Suttsu Hokkaido Japan) – 北海道の神社と狛犬

アイヌ語地名の傾向と対策 (50) 「カスペ・能津登・鮫取澗・歌棄」 – Bojan International

 

寿都(すっつ)

住所

北海道寿都郡寿都町


【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「シュフ」(葦や荻が多い岩崎)の説。

2.永田方正の『北海道蝦夷語地名解』によると、
アイヌ語の地名「スッツ」に由来し、語源は
「シュプキペッ」

(矢柄に用いる茅のある川)の説。
また、永田方正は同書で1の説を否定している。

 寿都町 – Wikipedia

 寿都町

熱郛(ねっぷ)

住所

北海道寿都郡黒松内町熱郛


【由来】

アイヌ語の「クンネ・ネッ・ペッ」(黒い標木
(目印となっている木)の川)の発音が詰まった言葉に
由来する。

熱郛駅 – Wikipedia

熱郛駅

熱郛(ねっぷ):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

真狩(まっかり)

住所

北海道虻田郡真狩村


【由来】

「真狩」とは真狩村内を流れる真狩川に由来し、

真狩川はアイヌ語、「マッカリベッ(または
マク・カリ・ペツ)」で意味は「後ろ・まわる・川」。

真狩川が尻別川から分かれて羊蹄山を取り巻いて
流れる様子を意味していると考えられている。

真狩村 – Wikipedia

位置と地勢:真狩村の概要|笑顔咲く ふれあいの村 まっかり

「真狩」の地名の由来

倶知安(くっちゃん)

住所

北海道虻田郡倶知安町


【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「クチャ・アン・ナイ」

(狩り小屋のある沢)の説。

2.アイヌ語の「クチャウンナイ」
(木の枝でつくった狩人の丸木小屋のある沢)の説。

3.アイヌ語の「クッ・シャン・イ」
(くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ)の説。

倶知安町ではこの案を採用している。
「クッ・シャン・イ」が「クッシャニ」となり
「クッチャン」(倶知安)となった。

また、「クッシャニ」は「クッチャン」以外に
「クドサニ」とも転訛し後に倶登山川(くとさんがわ)に

なった。

4.アイヌ語の「クッサムウンペッ」もしくは
「クッサムンペッ」で意味は「岩崖・のかたわら・にある・川」

現在の倶知安峠にあるクッチャウンペッという小川が
由来と推定される。

「足寄」「倶知安」あなたは読める?北海道の難読地名!|「マイナビウーマン」

倶知安(町)(くっちゃん)とは – コトバンク

町の概要 | 町のプロフィール | 倶知安町

倶知安町 – Wikipedia

 神恵内(かもえない)

住所

北海道古宇郡神恵内村


【由来】
アイヌ語とされ、意味も似たようなものだが、
紹介文が少し違うので複数掲載する。


1.アイヌ語の「カムイナイ」(神の沢)に由来する。

2.アイヌ語の「カムイ・ナイ」(美しい神の沢)に由来。
「地形がけわしく、人が近づきがたい神秘な沢」を意味する。

3. アイヌ語の「カムイナイ」(美しき神秘な沢)に由来する。

神恵内村 – Wikipedia

神恵内村の概要 | 北海道神恵内村(Kamoenai Village)

アイヌ語地名の傾向と対策 (48) 「神恵内・泊・アメリカソリ・堀株」 – Bojan International

神恵内村

積丹(しゃこたん)

住所

北海道積丹郡積丹町

【由来】

アイヌ語のシャク・コタン(夏の村)に由来する。

元は「サクコタン」(夏の部落)と呼んでいたが、
転訛し「シャコタン」となったと紹介するサイトもある。

積丹半島 – Wikipedia

積丹町役場 – 積丹町の概要

積丹地名行

南幌(なんぽろ)

住所

北海道空知郡南幌町

【由来】アイヌ語の「ポロモイ」とされるが、解釈は諸説あり。

1.(湾曲して緩やかに流れる所)の説。
南幌町はこの説を採用している。

2.(川の大きく静かな所)の説。

また、以前の表記は「幌向」(ほろむい)だったが、
現在の岩見沢市に同名の地名があって紛らわしいため、

町制施行の際に「南幌」となった。

 南幌町 – Wikipedia

南幌(町)(なんぽろ)とは – コトバンク

 南幌町(11)

北海道の難読地名と由来(5)

 

晩生内(おそきない)

住所

北海道樺戸郡浦臼町晩生内

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「オソキナイ(オソッキナイ」)」
〔川尻の高崖出たる所(川尻・寝台・川)〕に由来。

2.アイヌ語の「オソシケナイ」(川尻・剥げている・川)に由来。

3.アイヌ語の「オショシケナイ」(川口のがけが
崩れている川)に由来。

晩生内駅 – Wikipedia

晩生内(おそきない):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

アイヌ語地名の傾向と対策 (62) 「知来乙・札比内・晩生内」 – Bojan International

妹背牛(もせうし)

住所

北海道雨竜郡妹背牛町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「モセ・ウシ・イ」
(カヤ狩りをする・のが習いである・もの〈場所〉)が
転訛したものだとされる。

当初は「望畝有志」と表記し ていた。
妹背牛町ではこの説を採用している。

2.アイヌ語の「モセウシ」(イラクサの茂る所)の説。

3.アイヌ語の「モセユーセ」 (イラクサの茂ったところ) の説。 

妹背牛町(11) 参照

妹背牛(町)(もせうし)とは – コトバンク

妹背牛町(もせうし)とは – コトバンク

秩父別(ちっぷべつ)

住所

北海道雨竜郡秩父別町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「チクシベツ(チックシベツ)」(通路のある川)の説。
秩父別町はこの説を採用している。

2.アイヌ語の「チ・クシ・ペッ」(われらの越える川)の説。

3.アイヌ語の「チックシペッ」(泥炭地)の説。

秩父別町 – Wikipedia

秩父別駅 – Wikipedia

 秩父別町 

比布(ぴっぷ)

住所

北海道上川郡比布町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.知里真志保の説では、アイヌ語の「ピピペッ」
(石のごろごろしている・川)が転訛し、「ピッペッ」、

「ピプ」あるいは「ピピ」へと変化したとする説。

2.アイヌ語の「ピオプ」(石の・多い・ところ)の説。

3.アイヌ語の「ピプ」あるいは「ピピ」で意味は(沼の多いところ)
あるいは(石の多いところ)の説。

昔は湿地帯が多かったことや、石狩川の川床には石が
多かったためピプ、ピピが転訛し音訳して名付けられたと考えられている。

比布町はこの説を採用している。

比布町 – Wikipedia

北海道比布町| まちの概要

占冠(しむかっぷ)

住所

北海道勇払郡占冠

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「シモカプ 」(非常に静かな流れの上流)
あるいは(とても静かで平和な上流の場所)の説。

2.アイヌ語の「シ・ムカプ」(鵡川の本流)の説。

3.アイヌ語の「シュム・カプ」(ヤチダモが多い川岸)の説。

占冠村(しむかっぷ)とは – コトバンク

占冠村 – Wikipedia

北海道占冠村|村の概要| 占冠村のあらまし

苫鵡(とまむ)

住所

北海道勇払郡占冠村上トマム

北海道勇払郡占冠村中トマム

北海道勇払郡占冠村下トマム

※住所などではカタカナの「トマム」表記

【由来】

アイヌ語の「トマム」(湿地)あるいは(泥炭地)に由来。

Tomamu Station – トマム駅 – 北海道勇払郡占冠村 – Ekinavi

トマム駅 – Wikipedia

和寒(わっさむ)

住所

北海道上川郡和寒町

【由来】

昔は「輪寒」あるいは「和参」とも書かれ、アイヌ語
「ワットサム」あるいは「ワッサム」(ニレの木の傍ら)に由来。

昔、ニレの木が繁茂していたところから名づけられた。

 和寒町 総務課 » 和寒町の概要

和寒町 – Wikipedia 

アイヌ語地名の傾向と対策 (13) 「和寒・剣淵・士別・幌加内・朱鞠内」 – Bojan International

音威子府(おといねっぷ)

住所

北海道中川郡音威子府村

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(川口のにごっている川)の説。

音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからの命名とされる。

2.アイヌ語の「オ・トイネ・プ」
(川尻(を歩くと)・泥んこである・もの(川)」の説。

3.アイヌ語で濁りたる泥川、漂木の堆積する川口、
または切れ曲がる川尻に由来。

音威子府村はこれらの説を採用している。

音威子府村 – Wikipedia

村の概要|音威子府村について|音威子府村

咲来(さっくる)

住所

北海道中川郡音威子府村咲来

【由来】

アイヌ語の「サク・ル」(夏の通り道)に由来する。

夏季に現在の咲来峠を越えてオホーツク海側へ出る
交通路であったことによる。

咲来開拓之碑|北海道応援のブログ

咲来駅 – Wikipedia

札久留(さっくる)

住所

北海道紋別郡滝上町上札久留

【由来】

アイヌ語の「サク・ル」(夏道)に由来。

夏に興部川や天塩川の上流の柵留川に越える道であったからとされる。

アイヌ語地名の傾向と対策 (170) 「瀬戸牛・忍路子・札久留」 – Bojan International

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北海道の難読地名と由来(1)

 

雄信内(おのっぷない)

住所

北海道天塩郡天塩町雄信内

【由来】

雄信内川を指すアイヌ語の「オヌプウンナイ」
(川尻に・原野・のある・川)に由来する。

なお、アイヌ語地名研究家の山田秀三さんは、旧図には
「ヲヌフナイ」とあることから、「オヌプナイ」と略して
呼ばれたと推察している。

「雄信内」はこの「オヌプナイ」に字をあてたものであると考えられる。

雄信内駅 – Wikipedia

敏音知(ぴんねしり)

住所

北海道枝幸郡中頓別町敏音知

【由来】

アイヌ語の「ピン・ネ・シリ」(男の山)に由来する。

付近に二つの目立つ山があり、そのうちの片方がアイヌ語で「ピン・ネ・シリ」(男の山)と呼ばれていた。

もう片方の山は下記である

敏音知駅 – Wikipedia

廃線跡めぐり~中頓別町の天北線跡 | 北海道Likers

敏音知岳(ピンネシリ岳) | 北海道Style

 松音知(まつねしり)

住所

北海道枝幸郡中頓別町松音知

【由来】

アイヌ語の「マツ・ネ・シリ」(女の山)に由来する。

付近に二つの目立つ山があり、その内の片方がアイヌ語
「マツ・ネ・シリ」(女の山)と呼ばれていた。

もう片方の山は上記である。

松音知駅 – Wikipedia

松音知駅 – 松音知駅の概要 – Weblio辞書

枝幸(えさし)

住所

北海道枝幸郡枝幸町

【由来】

アイヌ語の「エサウシイ(エサウシ)」
(頭が・浜に・ついている・所)すなわち「岬」に
由来する。

枝幸町 – Wikipedia

枝幸町について

枝幸町のアイヌ語地名 – Bojan International

止別(やんべつ)

住所

北海道斜里郡小清水町止別

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ヤムぺッ」(冷たい・川)に由来。
アイヌ語で「冷たい川」は「ヤム・ワッカ」ともされる。

2.アイヌ語の「ヤワアンペッ」(内地の方・に・ある・川)に由来。

止別駅 – Wikipedia

止別駅 | 北海道Style

 

訓子府(くんねっぷ)

住所

北海道常呂郡訓子府町

【由来】アイヌ語の「クンネプ」とされるが、意味は諸説あり。

1.「黒い・ところ(川)」の説。

2.「黒いところ、やち川にして水黒し」の説。
訓子府町はこの説を採用している。

3.「黒いところ、湿地が多く小川の水が黒い」の説。

町名の由来と歴史

訓子府町 – Wikipedia

訓子府町(くんねっぷ)とは – コトバンク

丸瀬布(まるせっぷ)

住所

北海道紋別郡遠軽町丸瀬布上武利

【由来】

アイヌ語の「マウレセプ」あるいは
「マウレセップ 」(3つの川の集まる広い所)に由来。

丸瀬布町 – Wikipedia

丸瀬布(まるせっぷ)とは – コトバンク

興部(おこっぺ)

住所

北海道紋別郡興部町

【由来】

アイヌ語の「オウコッペ」
(川尻・互いにくっつく・もの(川))に由来。

町の西部を流れる興部川と藻興部川が、かつては
合流しオホーツク海に注いでいたことからとされる。

興部町 – Wikipedia

北海道興部町| プロフィール

雄武(おうむ)

住所

北海道紋別郡雄武町

【由来】

アイヌ語の「オムイ」あるいは「オム」(河口が塞がる)に由来する。

雄武川の河口は、嵐の時には、川から流れ出る水よりも、
海から打ち寄せる波のほうが強く、河口が塞がってしまうため、このような名称がついたと言われています。

シンボル・歴史・地名の由来 | 北海道雄武町

雄武町 – Wikipedia

壮瞥(そうべつ)

住所

北海道有珠郡壮瞥町

【由来】

アイヌ語の「ソーペツ」あるいは「ソー・ペッ」・
「ソウベツ」(滝の川)が転化し「壮瞥」となった。

壮瞥町では最初の「ソーペツ」を採用している。

由来になった滝は洞爺湖から壮瞥川が流れ出す地点にかかる
瀑布「壮瞥滝」とされる。

町の概要|壮瞥町ホームページ

壮瞥町 – Wikipedia

北海道の難読地名と由来(2)

 

新冠(にいかっぷ)

住所

北海道新冠郡新冠

【由来】

アイヌ語の「ニカプ」(ニレの木の皮)に由来する。

新冠町 – Wikipedia

新冠(町)(にいかっぷ)とは – コトバンク

新冠町(にいかっぷ)とは – コトバンク

鳧舞(けりまい)

住所

北海道日高郡新ひだか町三石鳧舞

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.松浦武四郎の説。

ケリヲマフ。ケリ(魚の皮の沓)があるところ。

かつて戦に負けた一団が籠城するうちに食料が尽き、
ケリまでも食べたことから。

沓は靴のこと。


2.松浦武四郎の説。

ケロマプ。ケロ(ヒザラガイ)のあるところ。

ヒザラガイ多板綱(たばんこう)とも呼ばれる
軟体動物の一群。
扁平な体で、背面に一列に並んだ8枚の殻を持っている。


3.更科源蔵の説。

「ケニ・オマ・プ」(ひるがおの根のある処)の説。

ひるがおの根は食料になった。


4.永田方正の説。

ケリ マㇷ゚ 履燒場 
土人飢餓ニ堪ヘズ鞋皮履キテ燒キ食ヒシ處ナリト云フ○鳧舞村

ケリ マㇷ゚(靴・焼く・ところ)の説。

鳧舞川 – Wikipedia

アイヌ語地名の傾向と対策 (331) 「鳧舞・シュムロ川・本桐」 – Bojan International

足寄(あしょろ)

住所

北海道足寄郡足寄町

【由来】

アイヌ語の「エショロ・ペッ」(他には「エソロペッ」
あるいは「アショロペツ」)とされ、意味は
(沿って下る・川)に由来する。

釧路方面から川沿いに十勝や北見に来るための道になっていたとされる。

足寄町 – Wikipedia

足寄(町)(あしょろ)とは – コトバンク

足寄町 | とかち晴れ

小利別(しょうとしべつ)

住所

北海道足寄郡陸別町小利別

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.利別は「トゥシ・ペッ」(縄の川)の説。

それよりも小さい川だから。

2.アイヌ語の「ポントシベツ」(小さい蛇川)の説。

3.アイヌ語の「ポントシベッ」(子である利別川)の説。

 地名 | 虫の知らせ

 小利別駅(しょうとしべつ):ふるさと銀河線 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

「小利別」の地名の由来

読めますか!!「染退」「鳧舞」「足寄」「小利別」北海道難読地名ー33:北海道からイランカラプテ:So-netブログ

押帯(おしょっぷ)

住所

北海道中川郡本別町押帯

【由来】

アイヌ語の「オシオプ」(川口の川床が箱のように深い)に由来。

押帯(おしょっぷ):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

アイヌ語地名の傾向と対策 (106) 「勇足・押帯・居辺」 – Bojan International

負箙(おふいびら)

住所

北海道中川郡本別町負箙

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ウフイ・ピラ」(燃える崖)の説。

勇足駅(ゆうたりえき)の利別川向い、この付近の川岸の崖が煙をはいていたので、ウフイ・ピラ(燃える崖) と呼ばれていた。

2.アイヌ語の「オフイ・ピタラ」(燃えている・河原)の説。

負箙の隣にある「勇足」という地名の旧名が
「エサンピタラ」のため、負箙も実は「オフイ・ピタラ」とする説。

明治期の地形図には「オフイピタラ」とあるそうです。

アイヌ語地名の傾向と対策 (209) 「美蘭別・ラウンベ川・負箙」 – Bojan International

跡永賀(あとえか)

住所

北海道釧路郡釧路町跡永賀村

【由来】

アイヌ語の「アトゥイ・オカケ」(海の跡)に由来。

アイヌ語地名の傾向と対策 (97) 「初無敵・冬窓床・跡永賀」 – Bojan International

釧路町 – Wikipedia

読めますか!!「跡永賀」「老者舞」「来止臥」「賤夫向」北海道難読地名ー35:北海道からイランカラプテ:So-netブログ

老者舞(おしゃまっぷ)

住所

北海道釧路郡釧路町仙鳳趾村老者舞

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「オ・イチャン・オマプ」
(川尻に鮭鱒産卵場がある)の説。

2.アイヌ語の「オサマッキプ」
(川尻に倉のような岩がある場所)という説。

おそらくこの倉とは大黒岩にことだろうといわれている。

なんて読む? 日本の珍地名「老者舞」 – ITmedia LifeStyle

道東観光情報根室地方

来止臥(きとうし)

住所

北海道釧路郡釧路町昆布森村来止臥

【由来】

アイヌ語の「キト・ウシ」
ギョウジャニンニクがあるところ)に由来。

来止臥の読み方: 難読漢字大辞典

来止臥(釧路町)

 喜登牛(きとうし)

住所

北海道足寄郡足寄町喜登牛

【由来】 

アイヌ語の「「キト・ウシ」
ギョウジャニンニクの根の所)あるいは 
(ぎょうじゃにんにく・群生する)に由来。

hokuchimei.web.fc2.com

礼文島の地名

北海道の難読地名と由来(3)

 初無敵(そむてき)

住所

北海道釧路郡釧路町跡永賀村初無敵

【由来】

アイヌ語のト・ウン・テㇰ(沼であるような)に由来。

アイヌ語地名の傾向と対策 (97) 「初無敵・冬窓床・跡永賀」 – Bojan International

知方学(ちぽまない・ちっぽまない)

住所

北海道釧路郡釧路町仙鳳趾村知方学

【由来】アイヌ語の「チプオマナイ」に由来するとされるが、
意味は諸説あり。


1.「河口に魚がたくさん集まる川」の説。

2.「舟のある川」の説。

知方学(ちぽまない):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

難易度S級がずらり!北海道釧路町の難読地名地帯 | pecodrive

いくつ読める?釧路町の「難読地名ロード」を走ってみた | 北海道Likers

入境学(にこまない)

住所

北海道釧路郡釧路町仙鳳趾村入境学

【由来】

アイヌ語の「ニ・オマ・ナイ」(流木のある川)
あるいは(川尻に流木の集まる川)に由来。

読めますか!!「初無敵」「知方学」「入境学」「冬窓床」北海道難読地名ー36:北海道からイランカラプテ:So-netブログ

入境学(にこまない):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

冬窓床(ぶいま)

住所

北海道釧路郡釧路町跡永賀村冬窓床

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.「プイ・モイ」(穴の入江)の説。

2.語源は不明だが、意味は(海の中に立っている岩)の説。

3.「ブユモイ」(穴のある立岩)の説。

アイヌ語地名の傾向と対策 (97) 「初無敵・冬窓床・跡永賀」 – Bojan International

冬窓床(ぶいま):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

道東観光情報根室地方

又飯時(またいとき)

住所

北海道釧路郡釧路町昆布森村又飯時

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.語源は不明だが、意味は(海の瀬の荒いところ)の説。

2.アイヌ語で「マタ・エトㇰ」(冬・水源)の説。

3.アイヌ語で「ワッカ・タ・エトㇰ」(水を・汲む・みなもと)の説。

いくつ読める?釧路町の「難読地名ロード」を走ってみた | 北海道Likers

アイヌ語地名の傾向と対策 (100) 「又飯時・春採・釧路」 – Bojan International

 

分遣瀬(わかちゃらせ)

住所

北海道釧路郡釧路町仙鳳趾村分遣瀬

【由来】アイヌ語の「ワッカ・チャラ・セ」が由来とされ、
意味は諸説あり。


1.「水がチャラチャラ流れる」の説。

2.「水が滝となって落ちているところ」の説。

3.「水・チャラチャラと滑り落ちる」の説。

読めますか!!「又飯時」「分遣瀬」「重蘭窮」「愛冠」北海道難読地名ー37:北海道からイランカラプテ:So-netブログ

いくつ読める?釧路町の「難読地名ロード」を走ってみた | 北海道Likers

アイヌ語地名の傾向と対策 (96) 「分遣瀬・賤夫向・入境学」 – Bojan International

重蘭窮(ちぷらんけうし)

住所

北海道釧路郡釧路町仙鳳趾村重蘭窮

【由来】

アイヌ語の「チプランケウシ」(船を下ろす所)に由来。

歴史的には、山で船を作り、重蘭窮にて船を海へ下ろしていた過去があるそうです。

なんて読む? 日本の珍地名「重蘭窮」 – ITmedia LifeStyle

重蘭窮(ちぷらんけうし):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

アイヌ語地名の傾向と対策 (94) 「重蘭窮・仙鳳趾・尻羽岬」 – Bojan International

愛冠(あいかっぷ)

住所

北海道足寄郡足寄町愛冠

【由来】

アイヌ語の「アイカップ・ピラ」(矢の届かぬ崖)に由来。

猟に行くとき、がけに矢を射かけて運をためす風習があるが、ここはその矢が容易にがけに達しなかった
ところから、名づけられたといわれている。

アイヌ語地名の傾向と対策 (211) 「鷲府・愛冠・カムイロキ山」 – Bojan International

愛冠駅 – Wikipedia

愛冠駅(あいかっぷ):ふるさと銀河線 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

厚岸(あっけし)

住所

北海道厚岸郡厚岸町

【由来】語源はアイヌ語とされるが、諸説あり。
古くは悪消・厚結子・渇結失などとも書いた。


1.「アッケウシイ」(オヒョウニレの樹皮・はがし・
いつもする・所)に由来。

2.「アッケシト」(オヒョウニレ・下の・沼)に由来。

3.「アッケシイ」 (カキのいるところ)に由来。

4.「アツケウシ」(アツシ草を剥ぐ所)に由来。

厚岸町の歴史物語 | 厚岸町の歴史 | 厚岸町の歴史・文化財 | 厚岸町の紹介 | 北海道厚岸町

厚岸町 – Wikipedia

厚岸町(あっけし)とは – コトバンク

「厚岸」の地名の由来

奔渡(ぽんと)

住所

北海道厚岸郡厚岸町奔渡

【由来】

古くはホントウと言った。

アイヌ語のポントー(小沼・子沼)に由来し、厚岸湖
ポロトー(大沼・親沼)と呼んだことに関連する。

アイヌ語地名の傾向と対策 (92) 「床潭・奔渡・パラサン岬」 – Bojan International

北海道の難読地名と由来(4)

 

標茶(しべちゃ)

住所

北海道川上郡標茶町

【由来】

アイヌ語の「シペッチャ」(大きな川のほとり)に由来。

語源のとおり町の中心に母なる川「釧路川」をはじめ、
別寒辺牛川、西別川の三大河川により産業と開拓の歴史が刻まれている。

標茶町の由来とあゆみ|行政情報|標茶町ホームページ

標茶町 – Wikipedia

 

弟子屈(てしかが)
住所

北海道川上郡弟子屈町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1、アイヌ語の「テシカ(岩盤)」+「ガ(上)」(岩磐の上)の説。

現在の共同浴場付近の岩磐の所の辺り。

かつては釧路川がその岸を洗っていたが、非常に磐の多い急流だったが、同時に魚のたまり場のようなところでも
あったので、アイヌの人達は何とかこの魚を獲りたいと
網をかけようとしましたが磐が多く、遂に杭を打ちこむ
ことが出来なかったそうです。

そこでアイヌの人達はせっかくたくさんいる魚をとる仕掛けもできない岩磐の上だと嘆いたことから「テシカガ」と呼ばれるようになったそうです。

2.アイヌ語の「テシカ(鮭をとる梁)」+「カ(罠)」の説。

3.アイヌ語の「テシカガ(岩が川を横断しているところ)」の説。

弟子屈町の概要|まちづくり情報|北海道弟子屈町

弟子屈町 – Wikipedia

弟子屈[町](てしかが)とは – コトバンク

「弟子屈」の地名の由来

標津(しべつ)

住所

北海道標津郡標津町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「シペッ」あるいは「シ・ベツ」
(大川・親川・本流)に由来。

2.アイヌ語の「シベヲツ」(サケがいる)に由来。

標津町 – Wikipedia

標津

紗那(しゃな)

住所

北海道紗那郡紗那村

【由来】

アイヌ語の「サン・ナイ」(下る・沢)あるいは
(流れ下る川)に由来。

紗那村 – Wikipedia

紗那
 

蘂取(しべとろ)

住所

北海道蘂取郡蘂取村

【由来】

アイヌ語のシ・ペッ・オロ(大きい川のところ)に由来。

蘂取村 – Wikipedia

蘂取村 ‐ 通信用語の基礎知識 

 

色丹(しこたん)

住所

北海道色丹郡色丹村

【由来】古くは「斜古丹」「支古丹」とも表記された。
    色丹島色丹村では由来が違うので両方掲載。

1.色丹島の場合
アイヌ語の「シ・コタン(大きな村)」に由来。

2.色丹村の場合
アイヌ語の「サクイベ・コタン」(夏ノ・場所、極マル・所)に由来。

色丹島 – Wikipedia
色丹村 – Wikipedia

 

来運(らいうん)

住所

北海道斜里郡斜里町来運

【由来】

アイヌ語「ライ・クル・ナイ」(死ぬ・人の・沢)
「死者の沢」に由来。

川の流れが極めて遅いためそう呼んだとされる。

来運の水 | 北海道Style

アイヌ語地名の傾向と対策 (236) 「ニクル沼・涛釣沼・来運」 – Bojan International

来運神社/北海道斜里町(Raiun Jinja,Syari Hokkaido Japan) – 北海道の神社と狛犬

芭露(ばろう)

住所

北海道紋別郡湧別町芭露

【由来】

現在の芭露川の河口が大きいことから、アイヌ語
「パル」(口)あるいは「パロ」(その口)に由来。

芭露駅 – Wikipedia

第1章 古代の湧別地方

 

送毛(おくりげ)

住所

北海道石狩市浜益区送毛

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ウクルキナヘ」(アイヌ民族の食用植物)に由来。

「ウクルキナ」「ウクリキナ」があり、タチギボウシユリ科)の
ことを言うことまでは分かったが「ヘ」がないため、別の可能性あり。


2.アイヌ語の「ウクルキ」(湿地に生えるサジオモダカ)の説。

3.アイヌ語でオクリキナ(オクリキナという草があった)の説。

オオバギボウシ」(ユリ科)がオクリキナと思われる。

北海道の地名集

 毘砂別送毛線(送毛山道)(びしゃべつおくりげせん(おくりげさんどう))[北海道]の口コミ・アクセス情報・地図 | 日産ドライブナビ

石狩市難読地名クイズ!「濃昼」、さて何と読む? | 北海道Likers

アイヌ語の花と植物の名前: アイヌ語の花と動物の名前

 

母恋(ぼこい)

住所

北海道室蘭市母恋南町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「ポクセイ・オ・イ」
(ホッキ貝のたくさんあるところ)の説。

2.アイヌ語の「ポクオイ(pok-o-i)」(陰になる所)の説。

この場合、当地全体が沢であったため付けられたと
される。

母恋駅/室蘭市 | たびらい

北海道の難読地名と由来(5)

 

歌内(うたない)


住所

北海道中川郡中川町歌内

【由来】元は「宇戸内(うとない)」であり、
語源はアイヌ語とされるが、諸説あり。


1.「ウッナイ」(肋骨・川)の説。

これは本流の両岸から小さい支流が流れ込む様を、背骨とあばら骨にたとえた地名とされる。

2.「ウッ・ナイ」(細いわき川)の説。

歌内駅 – Wikipedia

Utanai Station – 歌内駅 – 北海道中川郡中川町 – Ekinavi

 

 阿寒(あかん)

住所

 北海道釧路市阿寒町阿寒湖温泉 

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。


1.アカム( 車輪)とする説。

「アカン山雄山雌山車の両輪の如く並び聳えるが故号るよし也」

から。

2.ラカンプト(うぐいの産卵場の川口)の説。

3.アカン・ウン・ピンネヌプリ(不動・の・男山)の説。
地震の時雄阿寒岳が動かなかったことに由来し、
アカンのみ残った。

4.雄阿寒岳」「雌阿寒岳」に名付けられた、アイヌ語の「アカン」(不動)の説。


3と同様だが、釧路市の「旧阿寒町の概要」では
雄阿寒岳」「雌阿寒岳」の両方を指した、この説を採用している。

阿寒町 – Wikipedia

旧阿寒町の概要|北海道釧路市ホームページ

アイヌ語地名の傾向と対策 (280) 「阿寒」 – Bojan International

 

 知内(しりうち)

住所

北海道上磯郡知内町

【由来】

アイヌ語の「チリ・オチ」(鳥いるところ)に由来。

知内は鷹の産地として有名で、松前藩徳川将軍家に鷹狩り用に献上する15羽の鷹のうち、半数以上は知内で
捕獲したものと言われている。

町名の由来|北海道知内町
知内町 – Wikipedia

尾白内(おしろない)

住所

北海道茅部郡森町尾白内町

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.アイヌ語の「オシラリウンナイ」(潮の入り込む沢)の説。

2.アイヌ語の「オシラルウンナイ」(川口に岩礁のある川)の説。
現在はこちらの説が主流。

アイヌ語地名の傾向と対策 (56) 「尾白内・砂原・鹿部・川汲」 – Bojan International
尾白内駅 – Wikipedia 

 

歌内(うたない)


住所

北海道中川郡中川町歌内

【由来】元は「宇戸内(うとない)」であり、
語源はアイヌ語とされるが、諸説あり。


1.「ウッナイ」(肋骨・川)の説。

これは本流の両岸から小さい支流が流れ込む様を、背骨とあばら骨にたとえた地名とされる。

2.「ウッ・ナイ」(細いわき川)の説。

歌内駅 – Wikipedia
Utanai Station – 歌内駅 – 北海道中川郡中川町 – Ekinavi

 阿寒(あかん)

住所

 北海道釧路市阿寒町阿寒湖温泉 

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。


1.アカム( 車輪)とする説。

「アカン山雄山雌山車の両輪の如く並び聳えるが故号るよし也」

から。

2.ラカンプト(うぐいの産卵場の川口)の説。

3.アカン・ウン・ピンネヌプリ(不動・の・男山)の説。
地震の時雄阿寒岳が動かなかったことに由来し、アカンのみ残った。

4.雄阿寒岳」「雌阿寒岳」に名付けられた、アイヌ語
「アカン」(不動)の説。

3と同様だが、釧路市の「旧阿寒町の概要」では
雄阿寒岳」「雌阿寒岳」の両方を指した、この説を採用している。

阿寒町 – Wikipedia
旧阿寒町の概要|北海道釧路市ホームページ
アイヌ語地名の傾向と対策 (280) 「阿寒」 – Bojan International


舌辛(したから)

住所

北海道釧路市阿寒町舌辛

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.「シタ・カラ」(犬の子を産みたる処)の説。

2.「シタ・コロ・ベ」(犬を産みたる処)の説。

3.「シタツ・カラ・ナイ」(鬼かんば(ダケカンバ)を採る川)
あるいは「シタッ・カラ」(ダケカンバを取るところ)の説。

ダケカンバ(岳樺)はカバノキ科カバノキ属の落葉広葉樹。
別名はソウシカンバ等。

舌辛川 – Wikipedia

阿寒町のアイヌ語地名を巡る旅

 重内(おもない)

住所

北海道上磯郡知内町重内

【由来】

アイヌ語の「オム・ナイ」あるいは
「オ・ム・ナイ」(川尻がふさがる川)に由来。

 昔は泥炭地であったため。

町名の由来|北海道知内町

上ノ国(かみのくに)

住所

北海道檜山郡上ノ国町

【由来】

15世紀ころ、北海道(夷島《えぞがしま》)南部の日本海側は、上ノ国(かみのくに)、太平洋側は
下の国(しものくに)と称されていた。

勝山館を擁し、日本海・北方交易の拠点として栄えた
この地に上ノ国の名前が残ったことに由来する。

勝山舘(かつやまだて)は松前藩の藩主の一族松前
(蠣崎(かきざき)氏)の祖の武田(蠣崎)信廣が築城したといわれる。

上ノ国町の概要 | 北海道上ノ国町
上ノ国町 – Wikipedia

番外編

白人(ちろっと)

住所

北海道中川郡幕別町札内青葉町にある白人公園

白人は現在地名としては使用されていない。


【由来】

アイヌ語の「チル・オッ・トー」(鳥が多くいる沼)に
由来。

幕別町には「白人」という地名がある! 簡単には読めない難読地名だった – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

白人公園 [北海道中川郡幕別町札内青葉町/公園]の詳細情報 – Yahoo!ロコ

取材班が選んだ珍地名(3)白人小学校&天使突抜 | ニッポン旅マガジン

美羽烏(びばかるうし・びばがらす・びばからす・) 

読みは3種類ある。

住所

北海道上川郡剣淵町東町

※バス停は出るが、住所は分からず。

【由来】

アイヌ語の「ピパカルウシ」(貝殻をいつもとる所)に
由来。

美羽烏バス停(北海道上川郡剣淵町)地図/周辺バス停/最寄り駅|バス停検索

美羽烏(びばからす):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

美羽烏神社(剣淵町東町)|あおい

染退(しびちゃり・しべちゃり)

住所

※現在は日高管内新ひだか町

明治時代以降は地名としては使用されていない。

【由来】アイヌ語とされるが、諸説あり。

1.「シンプイチャロ」(湧き水の出口)の説。

2.「シペッチャリ」あるいは「シベツ・チャリ」など

(大川・散らばる)あるいは(本流が散らばる)の説。

3.「シベイチャニ」あるいは「シベイチャン」

(鮭の産卵所《ほり》)の説。

4.「シブチャリベツ」(鮭の・晒《産卵後の白くなる形》)の説。

5.「シビチャリ」(葭《あし》の草原)の説。

染退(しびちゃり・しべちゃり):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

アイヌ語地名の傾向と対策 (14) 「美深・仁宇布・フーレップ川・志美宇丹」 – Bojan International

静内川 – Wikipedia

アイヌ語地名の傾向と対策 (340) 「静内・元静内」 – Bojan International

生花苗(おいかまない)

住所※沼のため、住所表記は見つからず。

北海道広尾郡大樹町晩成

【由来】

アイヌ語の「オイカ・オマ・イ」(波が越えて入る)に
由来。

生花苗沼の由来も表記する。

アイヌ語の「オイカ・オマ・イ・トウ」
(越える・入る・ところ・沼)に由来。

生花苗沼 – Wikipedia

生花苗(おいかまない):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

別寒辺牛(べかんべうし)

住所

北海道厚岸郡厚岸町別寒辺牛

由来】アイヌ語とされるが、確たる由来は不明。

1.アイヌ語の「ベカンベウシ」

(ヒシの実のたくさんあるところ)に由来。

ただし、昔のアイヌの記録でも、厚岸にたくさんのヒシの実があったという話は確認されていない。

2.語源が1と同様かは不明確だが、意味に
(水上交通の要所)と言う話もある。

厚岸湖・別寒辺牛湿原

 奥潭(おこたん・おくたん)

読みは2種類ある。

住所

北海道千歳市奥潭

【由来】オコタンペ湖の由来。

アイヌ語の「オ・コタン・ウン・ペ」(川下に村がある)に由来。

この湖を水源とするオコタンペ川が支笏湖に注ぐ地点には温泉があり、かつてはアイヌがアメマス漁や入浴のために小さな村を営んでいた。

オコタンペ湖 – Wikipedia

支寒内(しさむない・ししゃもない)

読みは2種類ある。

住所

北海道千歳市支寒内

【由来】参考サイトの管理人様の解釈です。

「支寒」は、「隣人」(和人)を意味する si-sam だと
見て
間違い無いでしょう。

となると si-sam-nay か、あるいは si-sam-o-nay の
どちらか、と
なります。

si-sam-nay の「和人・沢」というのは、ありえない形ではないと思いますが、ちょっと唐突な感じがします。

一方、si-sam-o-nay で「和人・が(複数)いる・沢」と
解釈するのは極めて自然です。

この手の oma(単数)だったり o(複数)は略されることも多かったようですが、無くてもそれなりに意味が
通じますからね。

本文では「沢」に触れてなかったので、補足的なのを。「隣人」(和人)を意味する si-sam 、 oは(複数)、nay(沢)の解釈と思われる。

アイヌ語地名の傾向と対策 (31) 「支寒内・風不死岳・モラップ」 – Bojan International

文庫歌(ぶんがた)

住所※バス停しか見つからず。

北海道小樽市塩谷にある塩谷文庫歌

【由来】

アイヌ語の「プンカルオタ」あるいは
「ブンカル・オタ」(蔓《かずら》の絡まる砂浜)に由来。

「塩谷文庫歌」の時刻表/バス乗換案内/路線図/地図 – NAVITIME

文庫歌(ぶんがた):難読地名 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]

小樽駅から余市方面に行くバス停で塩谷文庫歌と言うバス停があるのですけ… – Yahoo!知恵袋

日本の難読地名と由来~栃木編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として
残っているのを紹介しています。

 

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栃木県の難読地名と由来

 
駒生(こまにゅう) 

住所

栃木県宇都宮市駒生

【由来】

当地で宇都宮氏が駒(馬)を飼育していたことによると
いう。 

「 宝木地域データブック – 宇都宮市立図書館」を参照

徳次郎町(とくじろうまち)

住所

栃木県宇都宮市徳次郎町

【由来】

当初は『外久次良』(とくじら)の地名だったが新田徳次郎昌言がこの地に徳次郎城を築いたことに因んで漢字を
当てて
『徳次郎』(とくじら)としたため、後世に
『徳次郎』の文字だけが
一人歩きし『とくじろう』と
誤読されたと云われる。


当初の「外久次良」の由来については、日光の久次良氏(久次郎氏)の外領ということで、外久次良
(外久次郎=とくじら)とされた。

徳次郎町 – Wikipedia

五十部町(よべちょう)

住所

栃木県足利市五十部町

【由来】

古代の余部郷にちなむと言われている。

「五十部」の名字の由来

足利郡余戸郷(栃木県)(一般提供情報) – 千年村プロジェクト

鐙塚(あぶづか)

住所

栃木県佐野市鐙塚町

【由来】諸説あり

1.伝承によると、建武2年(1335年)に亡くなった
尊雲法親王の首を埋めて
塚としたのを、村民が尊んで
阿武塚と呼んだのに由来すると言われている。


2.アブは、アバの転で動詞アバク(褫く)の語幹であり、
崩壊するという意です。

ヅカはツカで小高い丘、台地を意味します。

鐙塚は三杉川の氾濫によって浸食を受けた崩壊地に
由来する地名ではないかという説があります。

佐野市ホームページ [佐野市の紹介-地名のいわれ-鐙塚町]

樅山(もみやま)

住所

栃木県鹿沼市樅山町

【由来】

樅の木がある山という意味。古くは籾山と書いたようです。

その由来は、西山の岩穴に村人たちが、籾を貯蔵して
置いたのが
籾山の地名の起こりであるとも言います。

http://a11234842.travel-way.net/002.kanumanotimei08.kikuti.html

小来川(おころがわ)

住所

栃木県日光市西小来川

【由来】南北朝時代南朝の武将が読んだ歌が由来になっています。
サイトによって少し情報が違うのでどちらも載せます。


1.14世紀の南北朝時代の後半、南朝の藤原藤房公が小来川に来た時、薬師堂の丘から眺めた景観を見て

「湧き出でし 水上清き小来川 真砂も瑠璃の光をぞ添う」

という和歌を詠まれました。

この「小来川」の文字が地名の由来となっています。

円光寺 |歴史|ノミネート地域資源|あなたと選ぶ!日光ブランド

2.南北朝時代南朝側の武将がこの地に落ちのび、
「河川小さく来る里」と形容したことに寄るもので、この人は

「湧きいでし、水上清き小来川、真砂も瑠璃の、光ぞを慕う」

と言う歌を残していること、そしてこの辺では黒川を
小来川とも呼ぶ。

小来川 : こもれび

地名の小来川の由来は分かりましたが、「小来川」自体の
由来や意味は分かりませんでした。

ただ、黒川の由来は分かりました。

水源の黒沼によるもので、クロは小高いところの意味が
ありますが、
この沼の水は鉄分を含み、出水のときは
赤黒く見えるので、
その名がつけられたと伝えています。

http://a11234842.travel-way.net/002.kanumanotimei21.kikuti.html

神鳥谷(ひととのや)

住所

栃木県小山市神鳥谷

【由来】諸説あり。

1.武井佐久三著「地名の由来「神鳥谷(しととのや)」考」
「しとど(古くはシトト)巫鳥・鵐と書いて、小鳥の名。

ホオジロアオジの類で、みこどりともいう。

巫鳥の巫女は、神に奉仕する人だから、神を当てて神鳥と表記し、神鳥谷をシトトノヤと読むようになったの
だろう。


また、仮にホオジロアオジの類をシトドと称したとしても、これらの繁殖地は北海道で、本州では旅鳥・漂鳥なのだから、やはり可能性が少ない」とあり。

2.『大日本地名辞書 6 坂東』
「神鳥にシトトの訓あるいは、和名抄、巫鳥を之止止と註し、

天武紀、并びに漢語抄に出づ。

而も古語拾遺に、巫占者の名に、之止々鳥てふがあるを
思ふに、
シトトを神鳥と為すは、神占の故事に因れる者とす」とあり。

3.『とちぎの地名を探る』
小山市域に「神鳥谷」という大字名がある。


これはシトトノヤ(ヒトトノヤともいう)と呼ぶ難読地名の一つである。

この地名が文書に見える最初は、天文5年(1536)11月で、
「しととのや」と記録されいる。

だから後世になってヒトトノヤとも呼んで混用しているのは誤りである。


神鳥谷は「シトト・ノ(助詞)・ヤ」という地名である。

シトトは副詞シトドと同じで、甚だしく濡れる様をいい、
一般に「びっしょり」とか「ぐっしょり」などという。

また、シトトはシトシト・ジトジトの略とも解される。

この場合もひどく湿っているとか、濡れている様子を
表わす語で
あるから、湿地を意味するシト・シド系地名の範疇に含まれよう。

ヤはヤチ・ヤツ(谷)の下略であるので、シトトとヤは
同意語を重複
させたものである。

なお、神鳥谷地内には湿地・窪地などに関わる一の久保・亀久保・谷(や)中・新宿・溜下(ためした)・横谷などの小字が散在している。」


4.「小山郷土之由来 : 附・吾家のしるべ」

「鷲明神及神鳥谷の起源」の項あり。神鳥谷のフリガナ
なし。


「天慶二年平将門の乱を起こすや藤原秀郷之れを征討するに
先ち諸神に戦捷を祈願せしに武蔵鷲明神感應ありたれば
戦勝の後其分霊を太田庄に鎮座し奉りけるを後世小山政光の弟下河邊行蓮の子僧の光仏太田の庄より之れを此地に勧請し給ひしが一族及衆生の崇仰厚く鷲を神鳥と称し遂に此地を神鳥谷と呼ぶに至れり」とあり。

栃木県小山市の神鳥谷(シトトノヤまたはヒトトノヤ)の地名の由来が知りたい。 | レファレンス協同データベース

道祖土(さやど)

住所

栃木県真岡市道祖土

【由来】

八溝山を越えるための道祖神があることによると思われる。

「道祖土」の地名の由来

【個人的な見解】道祖神の別名に塞の神や障の神( さえのかみもしくはさいのかみ)があり、意味の一つに旅の安全を守る神がある。

道祖(さや)の読みは上記の「さえ」もしくは「さや」が転訛したものと
思う。

障の神・塞の神・道祖神(さいのかみ)とは – コトバンク

真岡(もおか)

住所

栃木県真岡市

【由来】諸説あり。

1.アイヌ語「マオカ」に由来し、風の強くあたる所・風の通る道の意から、台町一帯の風土がこれに該当し、
マオカがモオカになったという。


2.真岡の真は美称で、台町一帯の丘(岡)が精美であるので、真岡になったという。

3.鶴が舞う丘の「舞丘(まいおか)」が「舞丘(もうか)」と言われるようになり、「真岡」と書かれるようになったという。

地名の由来 – 真岡市ホームページ

「真岡」の地名の由来

真岡市 – Wikipedia

接骨木(にわとこ)

住所

栃木県那須塩原市接骨木

【由来】

庭床とも書く。地名は、永長年間当地に上都賀郡日光鉢石宿の浪人大島監物が土着し、ニワトコを植えて肥料木としたことにちなむという。

ニワトコ(接骨木、庭常)はスイカズラ科ニワトコ属の
落葉低木または小高木。

栃木県の地名集

ニワトコ – Wikipedia

上三川(かみのかわ)

住所

栃木県河内郡上三川町

【由来】諸説あり

1.当時の河内郡内にあった三川郷に由来するものと
言われている。


2.上三川にある3つの川(鬼怒川・江川・田川)が
由来とされる。

町のプロフィール/紹介

町の概要

汗(ふざかし)

住所西汗と東汗があります。

栃木県河内郡上三川町西汗

栃木県河内郡上三川町東汗

【由来】確たる由来は不明。

元々、ふざかし村(もしくはフザカシ村)がありました。

この名が付いた由来は、中世のころ鬼怒川舟運の船着場がここにあって、船の航行を許可する鑑札(通行証)を
貸していたことから


「札貸(ふだかし)場」「札河岸(ふだかし)」と
呼ばれ、
それが「ふざかし」に転訛したとされます。

汗がフザカシと呼ばれる由来については、フザカシ村には古刹・満願寺あり、この寺の薬師堂に祀られていた
薬師如来坐像が願をかけると


汗をかくということから「汗かき薬師」「汗薬師」と呼ばれ篤い信仰を集めていたそうです。

この「フザカシの汗薬師」が近在の人々の評判になり、
やがて「汗」一字で「フザカシ」と読むようになったと言われます。

栃木県上三川町の東部に「西汗」、「東汗」という変わった地名がありま… – 旅の知恵袋 – Yahoo!トラベル

船生(ふにゅう)

住所

栃木県塩谷郡塩谷町船生

【由来】

鶏岳(にわとりだけ)の東麓、船木沢の渓間に
周囲3m余の大木の槿があった。

これを伐採して彫船を作り鬼怒川に浮かべて、村民が旅人の通行に便を与えたことによると伝えられる。

「ふにゅう」の名字の由来

薬利(くずり)

住所

栃木県那須郡那珂川町薬利

【由来】

和銅年間葛(かずら)の里と称し、葛里が音続されて
「くずり」となり、
薬里から薬利と書かれるようになったという。

栃木県の地名集 

栃木以外の関東地方の難読地名

 

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日本の難読地名と由来~茨城編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として残っているのを紹介しています。

目次の茨城県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
神社の由来や伝聞などを紹介しています。

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茨城県の難読地名と由来


七五三場(しめば)

住所

茨城県結城市七五三場

【由来】複数の推測あり。

1.神社などに用いるしめ縄の種類の1つに、結った縄から垂らすワラの数を順に3、5、7本とするものがある。

これがしめ縄を七五三縄と描く由来であり、当地名も
七五三縄が転訛して七五三場とする推測。

2.「日本歴史地名大系」によると、鎌倉時代
「志目波」、
安土桃山時代に「志めは」と記された文書が残っているされ、
これを正しいとするなら、「志目波」→「志めは」→
「七五三場」と転訛したとの推測。


「七五三場」の漢字が当てられたのは、縁起の良い
七五三縄にあやかったためと思われる。

【難読地名紀行】結城市七五三場 由来はしめ縄か当て字か – 産経ニュース

水海道(みつかいどう)

住所

茨城県結城市水海道

【由来】諸説あり

1.平安時代の武将坂上田村麻呂がこの地で馬に水を
飲ませた
(水飼戸:ミツカヘト)という故事に由来する。

2.「カイト」集落の地名と思われる。
「水」の字は、湛水(たんすい)しがちな低湿地にある
集落を示す。


ただ、カイトについての定義は難しく、諸説ある。

例としては和歌森太郎
「将来耕地にすることを予定して囲った土地」

柳田国男は「有力者の比護のもとで住民が耕地化した
土地」
など様々である。

常総市 – Wikipedia

「水海道」の地名由来と「カイト」集落 : 目からウロコの地名由来

天下野(けがの)

住所

茨城県常陸太田市天下野町

【由来】

光圀公が巡視で当地を訪れた際、住民が地区に伝わる
散々楽(ささら、獅子舞)を披露した

その舞が軽い調子で非常に面白かったため、
光圀公が「天下一品」の称号を与えたという。

その噂が江戸の将軍の耳にも届き、将軍の前でも
散々楽を披露することになる。

その際、住民らは「天下一」とのぼりを立てたが、
将軍は「誰の許しを得て天下一と称しているのか」と
激怒。


見かねた光圀公がとっさに
常陸国には天下野(けがの)という村があり、天下野一の誤りだ」
と釈明したことから。

【難読地名を行く-茨城編】水戸光圀公の粋な計らい 常陸太田市天下野町(けがのちょう)(1/2ページ) – 産経ニュース

高道祖(たかさい)

住所

茨城県下妻市高道祖

【由来】

この地には高道祖神社があり、集落の道祖神
(どうそじん)。


道祖神は『さいのかみ』とも読み、当地は高台にあるので
『高』が付されたと考えられる。

道祖神は、路傍の神である。

集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに
主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として
信仰されている。

【難読地名を行く-茨城編】男性器を模した石像がズラリ 子授けに御利益、下妻市高道祖(たかさい)(1/2ページ) – 産経ニュース

道祖神 – Wikipedia

随分附(なむさんづけ)

住所

茨城県笠間市随分附

【由来】

地名は目下の者に自分の身分に随(したが)って、
そのつとめを
果たすように申し付けるという意味で、
『なふさつ』が転訛(てんか)
したもの、と言う説や
仏教由来説、アイヌ語説などがあるが
詳しいことは不明。

【難読地名を行く-茨城編】なまって変化? アイヌ語説も 笠間市随分附(なむさんづけ)(1/2ページ) – 産経ニュース

小浮気(こぶけ)

住所

茨城県取手市小浮気

【由来】

取手市に合併する前の藤代町が編集した「藤代町史」には
「地名の『ふけ』とは、深田とか沼沢地を意味し、後背湿地である」
と書かれている。

取手市はほぼ全域で利根川と小貝川に囲まれており、
戦国時代以前は小貝川に堤防はなく、周辺は沼地だった。

江戸時代に入ると治水事業が行われて川筋も安定したものの、大雨の際には濁流が田畑や住宅をのみ込んできた。

旧藤代町域の農家では、水害に備えて避難用の木造船を
軒先にぶら下げる習慣が以前にはあったという。

【難読地名を行く-茨城編】湿地が由来?水害の過去も 取手市小浮気(こぶけ)(1/2ページ) – 産経ニュース

女化町(おなばけちょう)

住所

茨城県牛久市女化町

【由来】

『女化物語』というキツネが嫁入りする民話が由来に
なっている。


『女化物語』には2つの伝承がある。

1.栗林義長伝
赤松宗旦「利根川図志」(安政2年, 1855年)五の

「栗林義長伝」等が伝えている。

牛久城主岡見氏の老臣に栗林義長がおり、稲塚に向けて
駒を走らせていたが、道中、火縄の匂いが鼻に入ったため、気を引き締め、辺りを見渡すと、猟師が鉄砲を構えていたので、その先を観ると、一匹の狐が腹を痛めて前足でさすっていた。


あまりの痛さに火縄の匂いにも気づいていない様子で
あった。
義長は飯名権現の詣で出たばかり、それも飯名権現の
使い姫は
キツネであり、飯綱使いの巫女はキツネを用いて人の吉凶を占う。

義長は飯綱使いに頼んで妻の交霊をしてもらった恩もあったので、小石を猟師に向かって投げつけ、弾は狙いを外した。
それに気づいた狐は察して逃げた。


社前に戻ると亡き妻に似た女がおり、義長はその女を娶るが、女との間に
生まれた子が6歳の頃、妻の正体が狐とわかり、行方知れずとなった。

翌日、縁先に

「みどり児の母はと問わば、女化けの原に泣く伏すと答えよ」

と書かれた一枚の紙が置かれていた。

以来、この原を「女化原」といい、いつからか稲荷の祠が建てられた。

2.根本村の忠五郎(忠七)伝
社伝や「女化稲荷縁起略記」等が伝えている。


その他、龍ケ崎市役所が龍ケ崎の昔話「キツネの恩返し」として掲載している。

茨城県牛久市観光協会の「娘に化けた狐の話」では、
栗林義長は忠五郎の子孫で、彼が稲荷神社を創建したとしている。

なお、根本村(現稲敷市上根本)には、女化神社分社の
稲荷神社(旧名は根本女化稲荷神社)がある。

建久年間(1190-1198年)、源頼朝が冨士の根で狩りをしていたところ、
霊狐に会い、高見が原の稲荷祠に
移り住めと助言した。


高見が原は女化原の古名で、他に根本ヶ原や小萩ヶ原とも呼んだ。

永正7年(1510年)、根本村の忠五郎が、眠っている霊狐を咳払いして
起こし、獲夫から助けた。

家に帰ると戸口に奥州から鎌倉へ向かうという老男若女がいたので、一宿を貸したところ、翌朝には若女一人が
取り残されていた。


行方知れずの男を探す間、女は耕作など手伝いをしていたが、やがて忠五郎が妻に娶った。
夫婦は一女二男を儲けた。


永正14年(1517年)のある日、霊狐であった女は、
子に正体を知られてしまったことを恥じて姿を消した。

忠五郎は霊狐が女性として現れた神秘を語り伝え、いつしか高見が原は女化原に、稲荷祠は女化稲荷と
呼ばれるようになった。


この忠五郎伝によれば、稲荷祠の創祀は

建久年間(1190-1198年)以前に遡る。

女化神社 – Wikipedia

【難読地名紀行 茨城】恩に報いたキツネの伝説 牛久市女化町 – 産経ニュース

【感想】↓の女化稲荷縁起(境内の案内板)ではキツネが残した歌と忠五郎が3児を抱えて探すも姿を再び見ることがなかった、趣旨の一文が好きです。

女化(おなばけ)稲荷の狐・・女化物語 | 神使像めぐり*余話

天宝喜(あまぼうき)

住所

茨城県つくば市天宝喜

【由来】

【簡略版】
当地で1口の剣を発見する。

里の人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いないと信じ、里の人たちは大いに喜び祀ったことから
里の名が天宝喜になったと言う。


【詳細】

天宝喜の十字路に鎮座する厳島神社通称弁天様の縁起によると次のように記されているという。

平賀迪也氏が記した
「天宝喜厳島神社と宝物等の由来について」
に従ってひも解く。

「昔々昔、当地の原野にひとつの堆塚があり、
夜々不思議な紫の光を発しはじめたので、里人が恐る恐る近づき調べたところ、一口の剣を発見した。

里人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いあるまいと、丁重に持ち帰り、「天の宝剣」と呼び祠を建てて納め更に占ったところ、

「是正しく弁財天の宝剣なり、ゆめ忽せにすべからず」

と卦に現れたので里人達は大いに驚き、且つ喜び益々篤く崇めて常に弁財天の祭祀を怠らなかったという。

ところがある時、一人の雲水が飄然としてこの里に現れ
里人から宝剣の由来を聞かされた。

偶々この雲水が背負っていたのは弁財天像であった。

里人たちがそれを謹み拝すると、慈眼優麗、尊容瑞厳、
粛然襟を正さじめる程の如何にも優れた木像であったが、
奇しくもその右手に有るべき筈の宝剣だけは持っていないので里人たちは不審に思ったが、雲水は厳かに

「この里こそ弁財天の鎮座すべき宿縁の地なり」

といい、その尊像を里人達に託し、何処ともなく
立ち去ってしまったという。

里人達その雲水のなされ様に、よほどの高僧か神仏の権化でもあったろうかと深く信じ以来この里では、この尊像を天の宝剣と共に天宝山観音寺を別当として愈々丁重に祀り続けたと云うことである。

後に尊像には、これに応じ小剣を持たせたということで
ある。


そして元和年間更に大きい社殿を建て直したのである。

つまり天より降れる宝剣を得、郷民大いに喜び祀ったということから里の名が天宝喜と呼ばれるようになったというわけである。」

http://jiyuugaoka.gozaru.jp/1305/130502.html

潮来(いたこ)

住所

茨城県潮来市

【由来】

常陸国風土記』には「伊多久(いたく)」とされ、
後に「板久」ないしは「板来」と変遷しています。

「伊多久」の由来は崇神天皇の時代、東国平定のために
常陸に派遣された建借間命が国栖の夜尺斯(やさかし)、
夜筑斯(やつくし)を討った際に、国栖らは大変痛がりながら死んだことから、この地は「伊多久(いたく)」と
名付けられ、
伊多久の郷と称されました。

その後、「板久」ないしは「板来」になり、
常陸国水戸藩主の
徳川光圀公が、

「何故、”潮”を(いた)と読むのかと土地の者に訊ねると、この地方の方言で、潮のことを”いた”と言う」

ことを知りました。

凪の海の潮の状態が板のように平面に見えること。


木目が水の流れのように見えることから、古くから

“板”に例えられたのが由来のようです。

それに興味を持った光圀公がそれまで「板来」とされていた
この土地を「潮来」と改めよ。と命じて、

これ以降「潮来(いたこ)」と読むようになりました。

茨城県の潮来はどうして潮に来ると言う書き方をするのでしょうか… – Yahoo!知恵袋

地名の由来 潮来 : わかよたれそつねならむ

「歴史地名」もう一つの読み方:ジャパンナレッジ 第53回 潮来

赤法花(あかぼっけ)

住所

茨城県守谷市赤法花

【由来】

平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。

平将門伝説 守谷市公式スマートフォンサイト-Moriya City

赤法花 – Wikipedia

 

行方(なめがた)

住所

茨城県行方市

【由来】

倭武の天皇が当地の景色を見て
「山の尾根も海の入江も、互い違いに交わり、うねうねと
曲がりくねって見える。
峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)見え、繊細な(くはしい)美しさがある。
だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」

この行細の名が後に、行方(なめがた)となったとされています。

行方地区の名前の由来は現原

FAQ ~よくある質問集~ | 行方市公式ホームページ

次木(なみき)

住所

茨城県行方市次木

【由来】

往還(道の行き来)にあった松並木に由来するという。
「なみ」に「次」の字を当てたかは不明。

野田市の難読地名・珍しい地名 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

廻戸(はさまど)

住所

茨城県稲敷郡阿見町廻戸

【由来】

阿見の昔ばなしでは「波佐間戸(はさまど)」とも書かれ、音が先なのか「角川日本地名大辞典」には、
「海に挟まれた土地に由来する」と書かれていた。

「波佐間戸」の地名は慶長七年(1602)には
現在の「廻戸」の地名に変わっています。

当時、田や畑の広さを調べた検地帳に廻戸村として出てくる。

現在の漢字である廻戸ですが、「廻」は、あたりを
ぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、

「国道125号線より旧道をたどってみると、曲がりくねった細い道」
なので、廻という字が当てられたのではないか、としている。

また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名があり、また、河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされているので、舟のつく所からきているのではないかとされている。

【難読地名を行く-茨城編】曲がりくねった旧道が由来? 阿見町廻戸(はさまど)(1/2ページ) – 産経ニュース

阿見の昔ばなし その6 | 茨城県阿見町ホームページ

 

大角豆(ささぎ)

住所

茨城県つくば市大角豆

【由来】諸説あり

1.当地で栽培している「大角豆(ささげ)」が
転訛し大角豆(ささぎ)となった説。

2.ササゲを集めたときのように土地がでこぼこしている様から
地名になった説。

【難読地名を行く-茨城編】豆のササゲが「ささぎ」に? つくば市大角豆(ささぎ)(1/2ページ) – 産経ニュース

 

月出里(すだち)

住所

茨城県稲敷市月出里

【由来】諸説あ

1.角川日本地名大辞典」には
「もとは月出と書いて『すたち』と読んだが、のちに
月出里(すだち)と改めた」。

読み方の由来については
「地内に大清水という字があり、清水の湧き出る地に由来する」という説

「上谷原という字があり、州がたっている地に由来する」という説が紹介されていた。

2.「筑波地方の地名の由来」では
「月出里の『月出』は『朏(ひ)』のこと」だと書かれている。

朏は「みかづき」とも読み、「三日月の里」が「朏の里」と転化し、「月出里」になったのではないかとしている。

読み方については「新月の現れを小鳥の巣立ちに
見立てた」のではないかと推察している。

月の満ち欠けで月日の長さを決める太陰暦では、新たな
月に入ってから初めて見える月は三日月である。

そのことから三日月のことを新月とも呼び、月に
入ってから初めて見える三日月(新月)を、鳥の巣立ちになぞらえたのではないかという説。

また、地元の方の話では

「月にちなんでいるのか、月出里にはウサギは食べてはいけないという言い伝えがある」と言う。

【難読地名を行く-茨城編】三日月に由来? ウサギの伝承も 稲敷市月出里(すだち)(1/2ページ) – 産経ニュース

 

 木葉下町(あぼっけちょう)

住所

茨城県水戸市木葉下町

【由来】諸説あり。

1.崖説

「アボッケのボッケはバッケと同じで崖のこと」を指す。

なぜ、それを「木葉下」と表記するのかは、堀口友一著「今昔水戸の地名」では「そのような場所の大樹の陰の意味である」と説明している。

崖の上に生えた木の下ということを表しているのだろう。

2.アイヌ語

アイヌ語の「o-pok=がけ下<o(尻)pok(下)」から来た説やアイヌの人に「木葉下」と書いて見せたところ
「あぶけ」と読んだと言う話もある。

3.朝房山の下説

堀口友一氏の著書「今昔水戸の地名」では
「朝房山の下にあることから、アボ下(ないしは、あさぼう下)の地名が起こったとも考えられる」
これが転化して、「あぼっ下(け)」となったという説

また、堀口友一氏の著書「今昔水戸の地名」には、
古く安土桃山時代には木葉下村と書き、
「あほつけ村」と読んでいたとあります。

「木葉下」の地名の由来

Info’s thursday/情報の木曜日

【地名のはなし】木葉下(あぼっけ) アイヌ語との説も 茨城・水戸 – 産経ニュース

【難読地名を行く-茨城編】難易度全国レベル 水戸市木葉下町(あぼっけまち) 山麓の地形に由来?!(1/2ページ) – 産経ニュース

 

番外編


手子生(てごまる)

住所

茨城県つくば市手子生

下記の由来は手子神社の由来が元です。

【由来(簡易版)】

女性の股に手を添えたら子供が産まれ、その名前を「手子丸」とつけ、其の子が成人して功績を残し、その徳を慕って神社を建立して守り神とし手子神社となったことが
由来とされる。

鹿島神社(手子生)[茨城県つくば市手子生985番] – 時を巡るお寺神社の旅 (つくば市)

【由来(詳細版)】

手子生村に住んでいた若い夫婦は、夫の留守中、その妻が村の若い衆のいたずらに遭わないように、 夫婦の隣に
住む爺さんが、毎晩妻の身体に手を当てて守ってやったら、いつしか妻は妊娠した。

生まれた男の子は、稀に見る秀才で、成人して立派な功績を残したことから、後世その徳を慕って一社を建立して末代までの守り神とした。

「手を当てて子が生まれた」ということから
手子神社といわれているという。

つくば市の神社 つくば新聞

子生(こなじ)

住所

茨城県鉾田市子生

【由来】氏子の伝聞だが可能性は高いと思い掲載

当地には厳島神社「本殿」があり、
「子生の弁天様」として親しまれている。

こちらの神社の氏子総代会長の話では


「地名が決まる前から神社があり、安産の神様として

親しまれていたから、子生という地名になったのだと思う」

とのこと。

「こなじ」と読む由来としては

「昔、年配の氏子から『子を生(な)す』がなまって

『こなす』から『こなじ』に変化したと聞いた」

とのこと。

【難読地名を行く-茨城編】古くから安産を祈願 鉾田市子生(こなじ)(1/2ページ) – 産経ニュース

 大甕(おおみか)

住所

茨城県日立市大みか町住所などでは大みかを使用している。

【由来】確たる由来は不明。考察サイトを参照。

神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、
あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられるため。

大甕の「甕」を「みか」と読むときは、水を入れる容器という意味のほかに、酒を入れたり、酒を醸造するときに使われる器という意味が付け加えられる。

大甕の使用例

1.祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」

2.播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境とした。

・大甕の地名が何時頃からあるのか?

大甕の地名が確認できるのは天保13年の「久慈郡久慈村田畑反別絵図」に
よれば、「大甕」は久慈村の字名の一つとしてあります。

また、考察サイトでは従来の説を否定してるので、こちらも掲載します。

いずれも大甕神社(ふるくは、大甕倭文神宮)の由来を説明し、神社名あるいは神名から、地名「大甕」の由来が
説明されている。

(1)甕星神説

(大甕倭文神宮社記)
常陸風土記に曰く、大甕は甕星神の居所の
土地なり。故に大甕と称す」
→ 現伝本の「常陸国風土記」には、大甕や甕星神の記載がなく、根拠がない。

(2)天津甕星説(大甕倭文神宮社記)
「当社縁起に曰く、建葉槌命は天神の勅をこうむり、
天津甕星を誅して倭文郷に鎮座す」。

ゆえに大甕倭文神宮といった。
→ 倭文郷は、現在の茨城県那珂市静の地をさす。

天津甕星は「日本書紀」にみえる神であるが、大甕とはなんら関係がない。

(3)甕星香々背男(みかぼしかがせお)説
(宮田実『大甕より久慈浜あたり』)

「大甕の地は先住民族として古典に載ることころの
甕星香々背男と称する強賊の占拠していたところであったために
伝えて此処を大甕と称すると云われている」

→ 甕星香々背男と大甕を結びつけるものはなにもない。

大甕(おおみか)の由来 hc_storia

 

茨城以外の関東地方の難読地名

 

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