賢くなりたい、でも、バカでもいたい。

宮城・仙台の情報や賢くなりたいおバカさんが足掻いてみるブログ。

日本の難読地名と由来~東京編~(中編1)

【スポンサーリンク】

日本の難読地名と由来~東京編~(中編1)一発目です!

 

最初に言っておく!1本目の業平以外は番外編で構成されています!

私もこうなるとは予想外だった!!!!

 

f:id:rasinban2:20180708224846g:plain

 

難読地名と由来~東京編~

 

 

業平(なりひら)

 

住所 東京都墨田区業平

 

【由来】※諸説あり。

由来となった業平天神社は現存しません。

この業平天神社はしばられ地蔵で知られる、業平山南蔵院の境内にあった神社(鎮守社)のことです。

江戸時代初期に開かれたといわれ、その由緒は、平安時代歌人在原業平(ありわらのなりひら)が亡くなった場所に建てられた業平塚に由来する(『江戸名所記』)と言われていますが、業平塚については諸説あります。

 

1.上記の在原業平が亡くなった場所に建てられた説。

 

2.力士成川運平の墓が業平の墓に転じたという説(『遊歴雑記』)。

 

3.里見成平の墓という説(『本所雨やどり』)。

 

4.在原業平東下りの際に、隅田川で舟遊びをした時に船が転覆して多くの人が亡くなった。

業平はその人々を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して塚に納めたとする説(業平山南蔵院のHP)。

 

『江戸名所図会』には「当社の伝説粉々として詳らかならず。」と記されている。

歴史研究者の石川悌二は「業平天神の由来は定かではないが、業平塚と里人がよんでいた塚は古くからこの地にあって、考古学の鳥居龍蔵博士はそれを上代の舟形式古墳であると推定した。

要するに伝承が伝承を生んで業平天神の社祠が建立されたものであろう。」と推測している。

 

 

【おまけ】上記に出て来た業平山南蔵院に安置してある「しばられ地蔵尊」について紹介したいと思います。

そもそもしばられ地蔵尊とは、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(西暦1701年)の造立と伝えられています。

「文政寺社書上」によると、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。
毎年12月31日(大晦日)の夜、しばられ地蔵尊の縄解き供養が行われます。

また、大晦日と元日には厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の縁起・「結びだるま市」が開かれます。

 

しばられ地蔵尊の由来は 江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。

 

縄解き供養は12月31日午後11時から南蔵院住職による「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は祈祷護摩の火でお焚き上げされます。
 もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。
参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、新年の願いを託すのです。
ご供養の間、住職、衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われ、荘厳な音の世界に浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。

業平 - Wikipedia

「業平」の地名の由来 | 雑学ネタ帳

しばられ地蔵|天台宗 業平山 南蔵院|公式ホームページ|東京都葛飾区にある在原業平氏ゆかりの寺院です

 

 

番外編

 

 

指谷(さしがやあるいはさすがや)

 

住所 現在は指ヶ谷小学校として残る。

 

【由来】江戸時代、時の将軍3代目家光公がこのあたりに鷹狩りに赴いた際に、まだ谷であった一帯を指し、そのうち人が住むであろうとおっしゃった為に「指ヶ谷」となったとされる。

【文京区】指ヶ谷町 - 旧町名をさがす会

【小石川①026】小石川指ヶ谷町 | 江戸町巡り

指ヶ谷町 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

 

 

 

真砂坂(まさござか)

 

住所 現在は真砂坂公衆トイレなどとして残る。

 

【由来】※東富坂(ひがしとみざか)の別名が真砂坂である。真砂坂の由来は不明のため、代わりに東富坂の由来を記載する。

 

現在の「東富坂」は新しい坂で命名時期は1908(明治41)年である。本来の「東富坂」は、この坂の南を通る 地下鉄丸ノ内線に沿った 狭い急坂であり、現在は「旧東富坂」と呼ばれている。また、命名時期は江戸時代とされる。

この「旧東富坂」の由来は「むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂があった。
東の坂は、木が生い繁り、鳶(とび)がたくさん集まってくるので「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による) 
富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。」

 

上記で「東西に二つの急な坂があった」と書いてある通り、西にも急な坂があります。

それが富坂(西富坂)である。こちらの由来でも鳶が共通している。

「江戸時代にはこの周辺に鳶(とび)が多く「女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故鳶坂と云」と江戸時代の仮名草子『紫一本』に書かれています。

この鳶坂(とびさか)が、あとになって富坂(とみさか)に転じたようです。江戸の地誌を綴った『御府内備考』には「年代不知富坂と書改候由申傳候」(年代はわからないが富坂と書き改めたと伝えられている)と記録されています。
また、『御府内備考』には、「西富坂 幅六間三尺、長壹丁半程」と書かれていますから、江戸時代の富坂の幅は11.3m、長さは160mだったようで、現在の富坂は上り切るまで約300m近くありますので、昔はかなりの急坂だったのが、現在のゆるやかな勾配に改修されたわけです。」

 

現在東富坂と旧東富坂は名称では残っているみたいです。

富坂(西富坂)は富坂警察署などの名で残っています。

profile/旧東富坂

profile/東富坂

富坂(とみさか) | TRY タウンガイド “文京風景”

 

 

大和郷(やまとむら)

 

住所 現在は大和郷幼稚園などとして残る。

 

【由来】大名庭園である六義園(りくぎえん)と深い関わりがある。六義園は徳川五代将軍綱吉の側用人であった柳澤吉保が1695年に土地を与えられた事に端を発する。

7年の歳月をかけて1702年に完成させた造園は六義園と名付けられ、小石川後楽園と並ぶ江戸の二大庭園に数えられた。その後、柳澤家は大和郡山へ転封()となるが、六義園下屋敷としてそのまま使用したため“大和”の名が残りました。 

 転封(てんぽう)とは知行地(じがたちぎょう)、所領を別の場所に移すことである。

 

また、「大和郷」は当初、「大和村」と表記されていました。今の「郷」に変わったのは「苦肉の策」です。

もともと大和村というのは、「大いに和を為す村」という意味がありましたが、当時の内務省から、「東京市内に、行政区の“村”と同じ名前があるのはまぎらわしい」と指摘されまして、名前を変えろということで、郷という名前を付けたというのが、実際のところです。

知られざる東京の住宅街 大和郷(やまとむら)岩崎(弥太郎)一家、首相も住んだ街 | The Watch | 三菱地所リアルエステートサービス株式会社

六義園の邸宅街を支える「大和郷会」/一般社団法人大和郷会 理事長 田口邦臣さん・副理事長 伊東久信さん – マチノコエ

 

 

厩橋(うまやばし)

 

住所 隅田川に架かる橋

 

【由来】橋名は西岸にあった「御厩河岸(おんまやがし:蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなむ。呼び名は他にもあり、御厨河岸(おんまいがし)がある。

渡しの呼び名も御厩(おうまや)の渡し・御厩(おんまい)の渡しなどがある。

 

御厩河岸については冒頭で触れてるが、簡単に説明すると米の運搬用に専用の厩(馬小屋のことである)があったことに由来する。

由来の元になった米蔵は、川岸にあった江戸幕府の「浅草御米蔵」を指し、その北側に付随施設の厩があったことによる。元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残る。

渡賃は人も馬も2文で武士は無料だった。

この渡しに限ったことではないのだろうが、渡し船では事故が多発しており、
「御厩の渡し」 は別名 「三途の渡し」 などとも呼ばれていたという。
そんな中、明治 5年(1872) に多数の花見客を乗せた渡し船が転覆事故を起こし、この渡しを利用する者がほとんどいなくなってしまうことになった。

それでも上流の 『吾妻橋』、下流の 『両国橋』 まではかなりの距離があることから、不便を感じた地元住民がその費用を出し合って明治7(1874)年に現在よりも約100mほど下流の位置に有料の 木橋 を架設したのが『厩橋』 の始まりである。と同時に渡しは廃止された。

その後は維持管理の問題で架設は民間から明治20年(1887) には東京府の管理になっている。

明治26年(1893) には木橋の老朽化でトラス鉄橋に架け替えられたが、関東大震災によって大きな被害を受けている。

橋の崩落こそ免れたものの、火災によって木製の床は焼失し、鉄製の構造部材も熱によって変形してしまったと言われている。

現在の 『厩橋』 は、昭和 4年(1929) に震災復興橋梁として架設されたものである。

隅田川の渡し - Wikipedia

厩橋 - Wikipedia

御厩河岸 | 錦絵でたのしむ江戸の名所

http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/bs-umayabashi.html

 

 

御徒町(おかちまち)

 

住所 現在は御徒町駅などとして残る。

 

【由来】江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。
御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す

御徒はそれぞれ組に属し、御徒組は本丸15組、西ノ丸5組が存在した。

各組の構成は頭1名、組頭2名、御徒28名から成り、将軍の行列の先導や幕府御用の警護、江戸城中の雑用を職務とし、組単位で屋敷地を拝領し、その組屋敷で暮らした。

『正保江戸図』(1644)には、地理的に軍事上の要所でもあった下谷・浅草に組屋敷があった。

御徒町 - Wikipedia

(330)御徒町(おかちまち)の由来 | 江戸老人のブログ

御徒町物語(御徒町の歴史)|日本唯一の宝飾問屋街 ジュエリータウンおかちまち:JTO

 

 

吾嬬(あづまあるいはあずま)

 

住所 現在は吾嬬第二中学校などとして残る。

 

【由来】「吾嬬神社(あづまじんじゃ)」に由来する。

祭神は「弟橘姫(おとたちばなひめ)」である。

弟橘姫は日本武尊ヤマトタケル)の東征神話で、尊が相模より房総へ渡る際、暴風雨に見舞われ、海を鎮めるために“いけにえ” となり海中に没した人物。

その遺品が流れ着き葬って塚としたものが「吾嬬神社」の始まりといわれる。吾嬬は「わが妻」の意味とされる。

現地名の立花(たちばな)も弟橘姫から来ているとされる。

立花 (墨田区) - Wikipedia

吾嬬町 - Wikipedia

吾嬬神社|墨田区立花の神社

昔の住所東京 向島区吾妻町今は何というのか知りたいのでご存じの方教え... - Yahoo!知恵袋

 

 

請地(うけじ)

 

住所 現在は請地児童遊園などとして残る。

 

【由来】※諸説あり。

1.「浮き地(埋立地)」という説。

 

2.鎌倉・室町時代の荘園において地頭や荘官その他が荘園領主に対して一定額の年貢の納入を請負っていた土地を「請地」といったという説。

【本所①057】向島請地町 | 江戸町巡り

【墨田区】向島請地町 - 旧町名をさがす会

 

 

感想

 

冒頭でも言いましたが、ほぼ番外編で構成される内容になるとは思いませんでした・・・・・。

東京の難読地名は多いので、東京編が終わるまでしばらくかかりそうです・・・・・・・・。

今回のでは吾嬬が印象的です。神話の人物が由来になっているのを知ると、それだけでワクワクしてきます(笑)

 

過去記事

kasibaka.hatenablog.com