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宮城・仙台の情報や賢くなりたいおバカさんが足掻いてみるブログ。

日本の難読地名と由来~茨城編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として残っているのを紹介しています。

目次の茨城県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
神社の由来や伝聞などを紹介しています。

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茨城県の難読地名と由来


七五三場(しめば)

住所

茨城県結城市七五三場

【由来】複数の推測あり。

1.神社などに用いるしめ縄の種類の1つに、結った縄から垂らすワラの数を順に3、5、7本とするものがある。

これがしめ縄を七五三縄と描く由来であり、当地名も
七五三縄が転訛して七五三場とする推測。

2.「日本歴史地名大系」によると、鎌倉時代
「志目波」、
安土桃山時代に「志めは」と記された文書が残っているされ、
これを正しいとするなら、「志目波」→「志めは」→
「七五三場」と転訛したとの推測。


「七五三場」の漢字が当てられたのは、縁起の良い
七五三縄にあやかったためと思われる。

【難読地名紀行】結城市七五三場 由来はしめ縄か当て字か – 産経ニュース

水海道(みつかいどう)

住所

茨城県結城市水海道

【由来】諸説あり

1.平安時代の武将坂上田村麻呂がこの地で馬に水を
飲ませた
(水飼戸:ミツカヘト)という故事に由来する。

2.「カイト」集落の地名と思われる。
「水」の字は、湛水(たんすい)しがちな低湿地にある
集落を示す。


ただ、カイトについての定義は難しく、諸説ある。

例としては和歌森太郎
「将来耕地にすることを予定して囲った土地」

柳田国男は「有力者の比護のもとで住民が耕地化した
土地」
など様々である。

常総市 – Wikipedia

「水海道」の地名由来と「カイト」集落 : 目からウロコの地名由来

天下野(けがの)

住所

茨城県常陸太田市天下野町

【由来】

光圀公が巡視で当地を訪れた際、住民が地区に伝わる
散々楽(ささら、獅子舞)を披露した

その舞が軽い調子で非常に面白かったため、
光圀公が「天下一品」の称号を与えたという。

その噂が江戸の将軍の耳にも届き、将軍の前でも
散々楽を披露することになる。

その際、住民らは「天下一」とのぼりを立てたが、
将軍は「誰の許しを得て天下一と称しているのか」と
激怒。


見かねた光圀公がとっさに
常陸国には天下野(けがの)という村があり、天下野一の誤りだ」
と釈明したことから。

【難読地名を行く-茨城編】水戸光圀公の粋な計らい 常陸太田市天下野町(けがのちょう)(1/2ページ) – 産経ニュース

高道祖(たかさい)

住所

茨城県下妻市高道祖

【由来】

この地には高道祖神社があり、集落の道祖神
(どうそじん)。


道祖神は『さいのかみ』とも読み、当地は高台にあるので
『高』が付されたと考えられる。

道祖神は、路傍の神である。

集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに
主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として
信仰されている。

【難読地名を行く-茨城編】男性器を模した石像がズラリ 子授けに御利益、下妻市高道祖(たかさい)(1/2ページ) – 産経ニュース

道祖神 – Wikipedia

随分附(なむさんづけ)

住所

茨城県笠間市随分附

【由来】

地名は目下の者に自分の身分に随(したが)って、
そのつとめを
果たすように申し付けるという意味で、
『なふさつ』が転訛(てんか)
したもの、と言う説や
仏教由来説、アイヌ語説などがあるが
詳しいことは不明。

【難読地名を行く-茨城編】なまって変化? アイヌ語説も 笠間市随分附(なむさんづけ)(1/2ページ) – 産経ニュース

小浮気(こぶけ)

住所

茨城県取手市小浮気

【由来】

取手市に合併する前の藤代町が編集した「藤代町史」には
「地名の『ふけ』とは、深田とか沼沢地を意味し、後背湿地である」
と書かれている。

取手市はほぼ全域で利根川と小貝川に囲まれており、
戦国時代以前は小貝川に堤防はなく、周辺は沼地だった。

江戸時代に入ると治水事業が行われて川筋も安定したものの、大雨の際には濁流が田畑や住宅をのみ込んできた。

旧藤代町域の農家では、水害に備えて避難用の木造船を
軒先にぶら下げる習慣が以前にはあったという。

【難読地名を行く-茨城編】湿地が由来?水害の過去も 取手市小浮気(こぶけ)(1/2ページ) – 産経ニュース

女化町(おなばけちょう)

住所

茨城県牛久市女化町

【由来】

『女化物語』というキツネが嫁入りする民話が由来に
なっている。


『女化物語』には2つの伝承がある。

1.栗林義長伝
赤松宗旦「利根川図志」(安政2年, 1855年)五の

「栗林義長伝」等が伝えている。

牛久城主岡見氏の老臣に栗林義長がおり、稲塚に向けて
駒を走らせていたが、道中、火縄の匂いが鼻に入ったため、気を引き締め、辺りを見渡すと、猟師が鉄砲を構えていたので、その先を観ると、一匹の狐が腹を痛めて前足でさすっていた。


あまりの痛さに火縄の匂いにも気づいていない様子で
あった。
義長は飯名権現の詣で出たばかり、それも飯名権現の
使い姫は
キツネであり、飯綱使いの巫女はキツネを用いて人の吉凶を占う。

義長は飯綱使いに頼んで妻の交霊をしてもらった恩もあったので、小石を猟師に向かって投げつけ、弾は狙いを外した。
それに気づいた狐は察して逃げた。


社前に戻ると亡き妻に似た女がおり、義長はその女を娶るが、女との間に
生まれた子が6歳の頃、妻の正体が狐とわかり、行方知れずとなった。

翌日、縁先に

「みどり児の母はと問わば、女化けの原に泣く伏すと答えよ」

と書かれた一枚の紙が置かれていた。

以来、この原を「女化原」といい、いつからか稲荷の祠が建てられた。

2.根本村の忠五郎(忠七)伝
社伝や「女化稲荷縁起略記」等が伝えている。


その他、龍ケ崎市役所が龍ケ崎の昔話「キツネの恩返し」として掲載している。

茨城県牛久市観光協会の「娘に化けた狐の話」では、
栗林義長は忠五郎の子孫で、彼が稲荷神社を創建したとしている。

なお、根本村(現稲敷市上根本)には、女化神社分社の
稲荷神社(旧名は根本女化稲荷神社)がある。

建久年間(1190-1198年)、源頼朝が冨士の根で狩りをしていたところ、
霊狐に会い、高見が原の稲荷祠に
移り住めと助言した。


高見が原は女化原の古名で、他に根本ヶ原や小萩ヶ原とも呼んだ。

永正7年(1510年)、根本村の忠五郎が、眠っている霊狐を咳払いして
起こし、獲夫から助けた。

家に帰ると戸口に奥州から鎌倉へ向かうという老男若女がいたので、一宿を貸したところ、翌朝には若女一人が
取り残されていた。


行方知れずの男を探す間、女は耕作など手伝いをしていたが、やがて忠五郎が妻に娶った。
夫婦は一女二男を儲けた。


永正14年(1517年)のある日、霊狐であった女は、
子に正体を知られてしまったことを恥じて姿を消した。

忠五郎は霊狐が女性として現れた神秘を語り伝え、いつしか高見が原は女化原に、稲荷祠は女化稲荷と
呼ばれるようになった。


この忠五郎伝によれば、稲荷祠の創祀は

建久年間(1190-1198年)以前に遡る。

女化神社 – Wikipedia

【難読地名紀行 茨城】恩に報いたキツネの伝説 牛久市女化町 – 産経ニュース

【感想】↓の女化稲荷縁起(境内の案内板)ではキツネが残した歌と忠五郎が3児を抱えて探すも姿を再び見ることがなかった、趣旨の一文が好きです。

女化(おなばけ)稲荷の狐・・女化物語 | 神使像めぐり*余話

天宝喜(あまぼうき)

住所

茨城県つくば市天宝喜

【由来】

【簡略版】
当地で1口の剣を発見する。

里の人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いないと信じ、里の人たちは大いに喜び祀ったことから
里の名が天宝喜になったと言う。


【詳細】

天宝喜の十字路に鎮座する厳島神社通称弁天様の縁起によると次のように記されているという。

平賀迪也氏が記した
「天宝喜厳島神社と宝物等の由来について」
に従ってひも解く。

「昔々昔、当地の原野にひとつの堆塚があり、
夜々不思議な紫の光を発しはじめたので、里人が恐る恐る近づき調べたところ、一口の剣を発見した。

里人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いあるまいと、丁重に持ち帰り、「天の宝剣」と呼び祠を建てて納め更に占ったところ、

「是正しく弁財天の宝剣なり、ゆめ忽せにすべからず」

と卦に現れたので里人達は大いに驚き、且つ喜び益々篤く崇めて常に弁財天の祭祀を怠らなかったという。

ところがある時、一人の雲水が飄然としてこの里に現れ
里人から宝剣の由来を聞かされた。

偶々この雲水が背負っていたのは弁財天像であった。

里人たちがそれを謹み拝すると、慈眼優麗、尊容瑞厳、
粛然襟を正さじめる程の如何にも優れた木像であったが、
奇しくもその右手に有るべき筈の宝剣だけは持っていないので里人たちは不審に思ったが、雲水は厳かに

「この里こそ弁財天の鎮座すべき宿縁の地なり」

といい、その尊像を里人達に託し、何処ともなく
立ち去ってしまったという。

里人達その雲水のなされ様に、よほどの高僧か神仏の権化でもあったろうかと深く信じ以来この里では、この尊像を天の宝剣と共に天宝山観音寺を別当として愈々丁重に祀り続けたと云うことである。

後に尊像には、これに応じ小剣を持たせたということで
ある。


そして元和年間更に大きい社殿を建て直したのである。

つまり天より降れる宝剣を得、郷民大いに喜び祀ったということから里の名が天宝喜と呼ばれるようになったというわけである。」

http://jiyuugaoka.gozaru.jp/1305/130502.html

潮来(いたこ)

住所

茨城県潮来市

【由来】

常陸国風土記』には「伊多久(いたく)」とされ、
後に「板久」ないしは「板来」と変遷しています。

「伊多久」の由来は崇神天皇の時代、東国平定のために
常陸に派遣された建借間命が国栖の夜尺斯(やさかし)、
夜筑斯(やつくし)を討った際に、国栖らは大変痛がりながら死んだことから、この地は「伊多久(いたく)」と
名付けられ、
伊多久の郷と称されました。

その後、「板久」ないしは「板来」になり、
常陸国水戸藩主の
徳川光圀公が、

「何故、”潮”を(いた)と読むのかと土地の者に訊ねると、この地方の方言で、潮のことを”いた”と言う」

ことを知りました。

凪の海の潮の状態が板のように平面に見えること。


木目が水の流れのように見えることから、古くから

“板”に例えられたのが由来のようです。

それに興味を持った光圀公がそれまで「板来」とされていた
この土地を「潮来」と改めよ。と命じて、

これ以降「潮来(いたこ)」と読むようになりました。

茨城県の潮来はどうして潮に来ると言う書き方をするのでしょうか… – Yahoo!知恵袋

地名の由来 潮来 : わかよたれそつねならむ

「歴史地名」もう一つの読み方:ジャパンナレッジ 第53回 潮来

赤法花(あかぼっけ)

住所

茨城県守谷市赤法花

【由来】

平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。

平将門伝説 守谷市公式スマートフォンサイト-Moriya City

赤法花 – Wikipedia

 

行方(なめがた)

住所

茨城県行方市

【由来】

倭武の天皇が当地の景色を見て
「山の尾根も海の入江も、互い違いに交わり、うねうねと
曲がりくねって見える。
峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)見え、繊細な(くはしい)美しさがある。
だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」

この行細の名が後に、行方(なめがた)となったとされています。

行方地区の名前の由来は現原

FAQ ~よくある質問集~ | 行方市公式ホームページ

次木(なみき)

住所

茨城県行方市次木

【由来】

往還(道の行き来)にあった松並木に由来するという。
「なみ」に「次」の字を当てたかは不明。

野田市の難読地名・珍しい地名 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

廻戸(はさまど)

住所

茨城県稲敷郡阿見町廻戸

【由来】

阿見の昔ばなしでは「波佐間戸(はさまど)」とも書かれ、音が先なのか「角川日本地名大辞典」には、
「海に挟まれた土地に由来する」と書かれていた。

「波佐間戸」の地名は慶長七年(1602)には
現在の「廻戸」の地名に変わっています。

当時、田や畑の広さを調べた検地帳に廻戸村として出てくる。

現在の漢字である廻戸ですが、「廻」は、あたりを
ぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、

「国道125号線より旧道をたどってみると、曲がりくねった細い道」
なので、廻という字が当てられたのではないか、としている。

また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名があり、また、河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされているので、舟のつく所からきているのではないかとされている。

【難読地名を行く-茨城編】曲がりくねった旧道が由来? 阿見町廻戸(はさまど)(1/2ページ) – 産経ニュース

阿見の昔ばなし その6 | 茨城県阿見町ホームページ

 

大角豆(ささぎ)

住所

茨城県つくば市大角豆

【由来】諸説あり

1.当地で栽培している「大角豆(ささげ)」が
転訛し大角豆(ささぎ)となった説。

2.ササゲを集めたときのように土地がでこぼこしている様から
地名になった説。

【難読地名を行く-茨城編】豆のササゲが「ささぎ」に? つくば市大角豆(ささぎ)(1/2ページ) – 産経ニュース

 

月出里(すだち)

住所

茨城県稲敷市月出里

【由来】諸説あ

1.角川日本地名大辞典」には
「もとは月出と書いて『すたち』と読んだが、のちに
月出里(すだち)と改めた」。

読み方の由来については
「地内に大清水という字があり、清水の湧き出る地に由来する」という説

「上谷原という字があり、州がたっている地に由来する」という説が紹介されていた。

2.「筑波地方の地名の由来」では
「月出里の『月出』は『朏(ひ)』のこと」だと書かれている。

朏は「みかづき」とも読み、「三日月の里」が「朏の里」と転化し、「月出里」になったのではないかとしている。

読み方については「新月の現れを小鳥の巣立ちに
見立てた」のではないかと推察している。

月の満ち欠けで月日の長さを決める太陰暦では、新たな
月に入ってから初めて見える月は三日月である。

そのことから三日月のことを新月とも呼び、月に
入ってから初めて見える三日月(新月)を、鳥の巣立ちになぞらえたのではないかという説。

また、地元の方の話では

「月にちなんでいるのか、月出里にはウサギは食べてはいけないという言い伝えがある」と言う。

【難読地名を行く-茨城編】三日月に由来? ウサギの伝承も 稲敷市月出里(すだち)(1/2ページ) – 産経ニュース

 

 木葉下町(あぼっけちょう)

住所

茨城県水戸市木葉下町

【由来】諸説あり。

1.崖説

「アボッケのボッケはバッケと同じで崖のこと」を指す。

なぜ、それを「木葉下」と表記するのかは、堀口友一著「今昔水戸の地名」では「そのような場所の大樹の陰の意味である」と説明している。

崖の上に生えた木の下ということを表しているのだろう。

2.アイヌ語

アイヌ語の「o-pok=がけ下<o(尻)pok(下)」から来た説やアイヌの人に「木葉下」と書いて見せたところ
「あぶけ」と読んだと言う話もある。

3.朝房山の下説

堀口友一氏の著書「今昔水戸の地名」では
「朝房山の下にあることから、アボ下(ないしは、あさぼう下)の地名が起こったとも考えられる」
これが転化して、「あぼっ下(け)」となったという説

また、堀口友一氏の著書「今昔水戸の地名」には、
古く安土桃山時代には木葉下村と書き、
「あほつけ村」と読んでいたとあります。

「木葉下」の地名の由来

Info’s thursday/情報の木曜日

【地名のはなし】木葉下(あぼっけ) アイヌ語との説も 茨城・水戸 – 産経ニュース

【難読地名を行く-茨城編】難易度全国レベル 水戸市木葉下町(あぼっけまち) 山麓の地形に由来?!(1/2ページ) – 産経ニュース

 

番外編


手子生(てごまる)

住所

茨城県つくば市手子生

下記の由来は手子神社の由来が元です。

【由来(簡易版)】

女性の股に手を添えたら子供が産まれ、その名前を「手子丸」とつけ、其の子が成人して功績を残し、その徳を慕って神社を建立して守り神とし手子神社となったことが
由来とされる。

鹿島神社(手子生)[茨城県つくば市手子生985番] – 時を巡るお寺神社の旅 (つくば市)

【由来(詳細版)】

手子生村に住んでいた若い夫婦は、夫の留守中、その妻が村の若い衆のいたずらに遭わないように、 夫婦の隣に
住む爺さんが、毎晩妻の身体に手を当てて守ってやったら、いつしか妻は妊娠した。

生まれた男の子は、稀に見る秀才で、成人して立派な功績を残したことから、後世その徳を慕って一社を建立して末代までの守り神とした。

「手を当てて子が生まれた」ということから
手子神社といわれているという。

つくば市の神社 つくば新聞

子生(こなじ)

住所

茨城県鉾田市子生

【由来】氏子の伝聞だが可能性は高いと思い掲載

当地には厳島神社「本殿」があり、
「子生の弁天様」として親しまれている。

こちらの神社の氏子総代会長の話では


「地名が決まる前から神社があり、安産の神様として

親しまれていたから、子生という地名になったのだと思う」

とのこと。

「こなじ」と読む由来としては

「昔、年配の氏子から『子を生(な)す』がなまって

『こなす』から『こなじ』に変化したと聞いた」

とのこと。

【難読地名を行く-茨城編】古くから安産を祈願 鉾田市子生(こなじ)(1/2ページ) – 産経ニュース

 大甕(おおみか)

住所

茨城県日立市大みか町住所などでは大みかを使用している。

【由来】確たる由来は不明。考察サイトを参照。

神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、
あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられるため。

大甕の「甕」を「みか」と読むときは、水を入れる容器という意味のほかに、酒を入れたり、酒を醸造するときに使われる器という意味が付け加えられる。

大甕の使用例

1.祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」

2.播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境とした。

・大甕の地名が何時頃からあるのか?

大甕の地名が確認できるのは天保13年の「久慈郡久慈村田畑反別絵図」に
よれば、「大甕」は久慈村の字名の一つとしてあります。

また、考察サイトでは従来の説を否定してるので、こちらも掲載します。

いずれも大甕神社(ふるくは、大甕倭文神宮)の由来を説明し、神社名あるいは神名から、地名「大甕」の由来が
説明されている。

(1)甕星神説

(大甕倭文神宮社記)
常陸風土記に曰く、大甕は甕星神の居所の
土地なり。故に大甕と称す」
→ 現伝本の「常陸国風土記」には、大甕や甕星神の記載がなく、根拠がない。

(2)天津甕星説(大甕倭文神宮社記)
「当社縁起に曰く、建葉槌命は天神の勅をこうむり、
天津甕星を誅して倭文郷に鎮座す」。

ゆえに大甕倭文神宮といった。
→ 倭文郷は、現在の茨城県那珂市静の地をさす。

天津甕星は「日本書紀」にみえる神であるが、大甕とはなんら関係がない。

(3)甕星香々背男(みかぼしかがせお)説
(宮田実『大甕より久慈浜あたり』)

「大甕の地は先住民族として古典に載ることころの
甕星香々背男と称する強賊の占拠していたところであったために
伝えて此処を大甕と称すると云われている」

→ 甕星香々背男と大甕を結びつけるものはなにもない。

大甕(おおみか)の由来 hc_storia

 

茨城以外の関東地方の難読地名

 

kasibaka.hatenablog.com

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kasibaka.hatenablog.com


kasibaka.hatenablog.com

 

 

日本の難読地名と由来~福島編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、説話として残っているのを紹介しています。

目次の福島県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
温泉など観光地の由来を紹介しています。

 

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福島県の難読地名と由来

一箕(いっき)

住所

福島県会津若松市一箕町大字八幡

【由来】

箕山にある八幡神社の社殿を造るときに領民が
一箕づづ運んだことに由来すると社伝にありますが、

本来は、全長約90mの前方後円墳を箕で土を運んで
築いたことが由来のようです。

現在その古墳は富士通の造成と団地の造成で
消滅しました。

会津地名町名の由来

七日町(なぬかまち)

住所

福島県会津若松市七日町

【由来】

毎月7日に市が開かれたことに由来する。

現在、行政上は「なのかまち」と読ませているが、
駅名や道路名は土地発音の「なぬかまち」を
採用しています。

七日町

七日町 (会津若松市) – Wikipedia

飯寺(にいでら)

住所

福島県会津若松市門田町大字飯寺

【由来】

飯寺という地名の由来は本光寺で葦名直盛が
飯を食したからだと伝わっています。

陸奥・飯寺館(城郭放浪記)

安積(あさか)

住所

福島県郡山市安積町吉田

【由来】

5世紀から6世紀にかけて、支配地を日本全国に広げた
大和政権は、
地方の支配を確実なものとするために、
大和政権に服属した地方の
有力豪族を国造に任命し、
その地域の統治にあたらせた。


当時の安積の地には阿尺国造がおかれ、比止禰命という人物が任命されたという。

この「阿尺」が現在の「安積(あさか)」の地名の由来と
いわれている。

地名の由来/郡山市

安積町 – Wikipedia

差塩(さいそ)

住所

福島県いわき市三和町差塩

【由来】諸説あり。

1、高い山から海が見えたので「潮を指さす」から転化して「差塩」となった説。

2、ここが会津地方への塩の輸送の集積地であったので、
「塩を差配する」から、「差塩」になった説。

いわき市三和町の「差塩(さいそ)」の地名由来について知りたい。 | レファレンス協同データベース

勿来(なこそ)

住所

福島県いわき市勿来町

【由来】諸説あり

当初は菊多(きくた)という地名だったが、後の石城国時代に、多賀郡と菊多郡の境に「菊多関」が建てられ、
この菊多関はやがて「勿来関」に改名された。

「勿来」とは「な来(こ)そ」すなわち「来るなかれ」を
意味しており、
蝦夷の南下を防ぐ意味を持っていたという説がある。

常陸国陸奥国の境となった勿来関付近は断崖
(現在、平潟トンネルが貫通している)となっている。

この難所を抜けた所に関が位置したことから、
関東地方の武士たちから重視され、源義家も勿来に
立ち寄った。

勿来 – Wikipedia

上記はWikipediaを参照しましたが、個人ブログでは
これを否定するサイトもありました。

現地へ行って分かったことは、そこにある「文学歴史館」なるものを見るにつけ、どうもこの関は架空の産物では
ないかということだ。


そこに古くからある「名古曽(なこそ)」という地名に
目をつけた
江戸時代の平藩が、歌枕で有名な「勿来」は
ここだとばかりに

「碑」を立てて観光客を引き寄せようとしたに違いない。

今の勿来関跡は、海岸の高い丘の上にあり、
街道が通過していたとも思われない。

名古曽は、なだらかな海岸の狭い平坦地を表す地形用語、とあります。

古代三関と「勿来関」の地名由来 : 目からウロコの地名由来

また、アイヌ語の説もあり、ナコソnako’soはna-kot-soの合成語。

ナは水、コツは孔ー竹を二つ割にして、凹面を海に向けたような孔道、ソウは海岸に見え隠れしている岩で、

「海水にひたる孔道のある低い岩」の意。

現在の街道は、勿来の関阯のある丘陵上に通じているが、
古いアイヌの時代には海岸沿いの自然の孔道が通路として
利用せられていたと思われるという。

他の説には、nai-kush(川を越す)の訛りだという。

合戦坂(ごうせんざか)

住所

福島県白河市合戦坂

【由来】

天正7年5月17日、常陸佐竹義重の軍勢が、
関山方面より白河へと侵攻してきた。

白河結城義親の軍勢千余騎は、五日市場・館合から、
古道の坂(市営火葬場がある坂)を通り迎撃した。

白河勢が後退したとき、白河軍の背後から、

14・5才の少年2人が忽然と現れた。

妖しき面貌の二人が敵軍中に躍り込むと、佐竹勢は無数の軍勢と幻覚してパニックに陥り、総崩れとなった。

二人の少年が仕止めた首は、280余であったという。

戦いの後、義親が件の少年に「汝らは如何なる者ぞ」と
問うと、

「我らは不動明王の使途、矜迦羅童子(こんがらどうじ)と
制咤迦童子(せいたかどうじ)なり。行末も汝らを守らん」

と答えて、姿を掻き消したという。

これ以後、館合の坂道は「合戦坂(こうせんざか)」と呼ばれ、
路傍に「味方不動」が祀られた。

そこに湧く「味方不動清水」は、今も絶えずに残っている。

合戦坂(こうせんざか)

白河市(福島県)の坂: 坂道散歩

神俣(かんまた)

住所

福島県田村市滝根町神俣

【由来】

カアアヌka anu(鳥を捕えるワナ)、マタmata(冬)の転訛。

冬に渡り鳥が来たとき、ワナをかけて捕った所であろうという。

東北のアイヌ語由来とみられる駅名(山形県・福島県)(3) – 地名アラカルト

霊山(りょうぜん)

住所

福島県伊達市霊山町下小国

【由来】

比叡山延暦寺の座主円仁によって開山されたといわれ、
釈迦が修行したと
いうインドの霊鷲山(りょうじゅせん)にちなみ霊山と命名された。

霊山 りょうぜん

桑折(こおり)

住所

福島県伊達郡桑折町

【由来】

奈良・平安時代東山道に駅家(うまや)が設置され、
郡家がおかれたところから桑折と改められた。

町の概要 | 桑折町ウェブサイト

【豆知識】

桑折町には醸芳(じょうほう)中学校など、醸芳が付く
教育機関などが
ありますが、この由来は明治時代の初め、
明治天皇桑折町で休息を取られた際、随行の木戸孝充が
この地に「醸芳」の書を与えたことに由来しています。

醸芳中学校での解釈では「醸」とは酒を醸すこと、

「芳」とは香りある花のこととし、これを総合して解釈すると

「賢者能士を育成すること,あたかも米麹に和して
酒を熟成するよう盛んに多くの人材を育成すること」

としてます。

学校案内 | 桑折町立醸芳中学校 – 桑折町教育ポータル

柳津(やないづ)

住所

福島県河沼郡柳津町

【由来】

只見川の河岸は明治時代までは柳の大木が繁茂しており、大同の頃(約1200年前)、南岩坂(今の柳津)の河岸に三本の大柳があり、

船やいかだの発着所であったので
柳津の地名が起こったと言われています。


宮城県の柳津、岐阜県の柳津、そして会津柳津町も共に、川に添って
水運の便があり、発音はいずれも
「やないづ」であることから、
「梁場」の語源に関係あるといわれています。

柳津町プロフィール | 柳津町

鶴生(つりゅう)

住所

福島県西白河郡西郷村鶴生

【由来】

いつのころか、千歳川の上流に住む鶴が2羽の子を産み、愛しみ育てていた。しかし、日たてど羽も生えずただ衰えるばかりで親鶴は大へん心配した。

ある日、住み場所を代えてはと、子鶴を笹原の池に伴った。

しばらくして、子鶴は丈夫になり羽もそろったので親鶴は大いに喜び、子鶴を連れて手綱番の沼へ飛び去ったと
いう。


人々はこの鶴の住みついた沼を鶴沼、川を千歳川下流の村を鶴生、
羽の生えた村を羽太と呼ぶようになったと
伝えられる。

西郷村社会科副読本 DATA BOOK-058/147page

羽太(はぶと)の地名の由来 – 国立オリンピック記念青少年総合センター にいどんブログ

塙(はなわ

住所

福島県東白川郡塙町

【由来】

川岸段丘の小高くなった場所から、「ハナワ」と
呼ばれるようになったとされている。

「塙」を大辞林三省堂)で調べてみると、

「山などの突き出した所。また、土の小高く盛り上がった所。」

と書かれてある。

地名に込められた様々な想い ~ 地名の由来(白河市・西白河郡・東白川郡): 楽に暮らす、しらかわ

古殿町(ふるどのまち)

住所

福島県石川郡古殿町

【由来】

旧宮本村・旧竹貫村が合併した際に、総鎮守である
古殿八幡神社の所在地である「古殿」の地から取ったものです。

「古殿」という地名は古より代々領主が隠居し八幡を守護していた際に
古記殿を館としていたことから、この地を「古殿」と
呼ぶようになりました。 

古殿町 | 町の紹介 | 古殿町 

番外編


鐙摺石ザクラ(あぶづりざくら)

住所

福島県本宮市稲沢鐙摺石

【由来】諸説あり

1.別名「一本松の種まき桜」とも呼ばれ、坂上田村麻呂が大滝根へ馬を進めている途中、岩が両側から迫り、
鐙(あぶみ)を摺りながら
ようやく通り抜けた眼前に、
桜が見事な花を咲かせて迎えてくれた、
と言う伝承が
由来です。

2.鐙摺城址があり、1177年(治承元年)、未だ伊豆配流の身であった挙兵前の源頼朝が三浦を訪れた際、ここ鐙摺にあった三浦大介義明の三男、太多和三郎義久の別館を
訪れました。


「鐙摺山」という名称は、小山に城を造る計画を話し、
義久が頼朝を
案内したときに道が狭く巌に頼朝の鐙が摺れたことから、頼朝が鐙摺山と名づけたそうです。

お伊勢様の鐙摺石ザクラ ( 福島県 ) – 福島県一本桜型録(カタログ) – Yahoo!ブログ

鐙摺城址 | 史跡 | 鎌倉タイム

鎌倉遺構探索: 鐙摺城跡

塔の岪(とうのへつり)

住所

福島県 南会津郡下郷町 弥五島下タ林

【由来】

自然が作り出した渓谷のことを指し、塔の形が立ち並ぶ
断崖という意味から「塔のへつり」と名づけられた。


へつりとは地元の言葉で断崖のことを言う。

塔のへつり (とうのへつり) | 南会津の観光スポット、イベント、宿泊施設など旅行案内 | おいでよ!南会津

木賊温泉(とくさおんせん)

住所

福島県 南会津郡南会津町 宮里

【由来】

植物の木賊(とくさ)が群生していたことから。

[温泉案内] 南会津町 木賊温泉(とくさおんせん) | 南会津の観光スポット、イベント、宿泊施設など旅行案内 | おいでよ!南会津

甲子高原(かしこうげん)

住所

福島県西白河郡西郷村大字小田倉字赤面山国有林

【由来】由来は甲子温泉なので高原の由来とは違うかもしれません。

甲子温泉は甲子の山中にあり、600年以上前の志徳元年(1384)甲子(干支の一つで1番目)の年に、州安和尚に発見されたことにその名の由来があると言われています。

温泉で癒す 【西郷村観光協会 さわやか高原公園都市「にしごう」】

猫啼温泉(ねこなきおんせん)

住所

福島県石川郡石川町猫啼

【由来】

平安中期の女流歌人和泉式部(当地では玉世姫)」は
この石川の地で生まれました。

和泉式部には愛猫の(そめ)が居ました。

和泉式部が京の都へ上る際、故郷にとり残された愛猫は
病み衰えていたが、式部を慕い、日毎にこの泉に来ては
啼き、 泉に
浴しているうちに病体は癒えて、美しき猫となった。

猫を憐れんで見守っていた里人達は、はじめて泉が霊泉であることを知り、泉水を汲んで入浴したら、 諸病に効顕があり、
この里を猫啼と名づけ、湯治場を設けた。

猫啼温泉 式部のやかた 井筒屋の公式ホームページ

猫啼温泉 式部のやかた 井筒屋の公式ホームページ

福島以外の東北地方の難読地名

 

kasibaka.hatenablog.com

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日本の難読地名と由来~山形編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来に
ついて
諸説も含め、説話として残っているのを
紹介しています。

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山形県の難読地名と由来



七日町(なぬかまち・なのかまち)

住所

山形県山形市七日町

【由来】

最上義光公が産業振興のために「市日(市場を開く日)」を作りました。


ちょうど現在の七日町商店街のある区域は「7」のつく日に市を開いたことから、「市日」をそのまま町名に
制定した際に
「七日町」となりました。

七日町の由来

温海(あつみ)

住所

山形県鶴岡市温海

【由来】

温泉から溢れ出た温かな湯が、川に流れ込み、日本海

温めたことに由来します。

温海地域の概要 鶴岡市

五十川(いらがわ)

住所

山形県鶴岡市五十川

【由来】

アイヌ語イカ川ika(越える)の転訛で
「川伝いに,山越えする所にある川」の可能性。

東北のアイヌ語由来とみられる駅名(山形県・福島県)(3) – 地名アラカルト

茅原(ちわら)

住所

山形県鶴岡市茅原

【由来】

鶴岡城下の北にある農村で茅原村といった。

村ができる前は、茅(かや)の繁茂する原野であったことから茅原村と名付けられたと見られ、現在の地名になったと思われる。

旧町名とその由来3 鶴岡市

手向(とうげ)

住所

山形県鶴岡市羽黒町手向

【由来】

「神に手向(たむ)ける」がその名の由来で、
昔はそのまま「峠」とも書いていた。

もしくは昔の人々が山を越える時に、峠で手を向かい合わせ無事に登れたこと、そして下りも無事で行けるよう
拝んだ。

拝むときに手を向かい合わせることから、

“ 手向(とうげ) ”と呼ぶようになった。

11.羽黒の宿坊町ー手向(とうげ)|スピリチュアル☆ファンタジー2

手向(とうげ) : 山形県 鶴岡市 大工さん (有)親和創建 家づくり日記

鼠ヶ関(ねずがせき)

住所

山形県鶴岡市鼠ヶ関

【由来】諸説あり

1.「寝ずが関」で、一晩中寝ずに張り番をする番所、関所を由来とした説


2.「子(ね・北)」の「津(つ・港)」の関所という説がある。

有力なのは後者の「子津の関所」であり、11世紀の歌枕に記述が残り、歴史的背景も確かである。

「鼠ヶ関」の地名の由来

鼠ヶ関より: 鼠ヶ関の地名について

 無音(よばらず)

住所

山形県鶴岡市無音

【由来】諸説あり。

1.「よばらず」は招かない、交際しないの意味があり、
この地が羽黒山領だったため、周囲の村との付き合いを
絶っていたためとする説。

2.昔、このあたりは沼で、行き来には船を使ったが、音をたてると沼の竜神が怒るので音をたてないように渡った。

竜神をよばないようにということに由来する説。

難読地名、無音「よばらず」: 多摩湖畔日誌

「無音」の地名の由来

生石(おいし)

住所

山形県酒田市生石

【由来】

石材の産地としての伝播地名。

大沼 浩『荘内地名辞典』 【お】

柏谷沢(かしやざわ)

住所

山形県酒田市柏谷沢

【由来】諸説あり。

1.『カシワの木の自生する沢』

沢名には植物によるものが多いので、柏の生える沢を採る。

ただしカシかカシワかは、はっきりしない。

2.陸路がなく渡船にたよったので、アイヌ語
カスイ(徒渉する※川などを歩いてわたること)からともいわれる。

大沼 浩『荘内地名辞典』 【か】

寒河江(さがえ)

住所

山形県寒河江市

【由来】

現在の神奈川県にある寒川神社(さむかわじんじゃ)の
近在から
この地に移住してきた人々が、古里の
相模川流域とにていることから、
またその自然に
魅せられたことから「寒川」(さむかわ)と称したことが

起源と言われており、すでに平安期の日記には、
寒河江」の地名がみられる。

寒河江の語源は、「寒川」は川沿いが寒いことから、
「江」は河川が増水するたびに入江を作ったことの名残とされている。

寒河江

「寒河江」の地名の由来

左沢(あてらざわ)

住所

山形県西村山郡大江町左沢

【由来】諸説あり。

1.かつて寒河江荘の領主だった大江氏が、近郊の長岡山に登って西の方を眺めたとき、平野山の左手に見える山谷を「あちらの沢」と呼んだことが、地名の由来だと
言われているもの。



2.大江町と朝日町の境界上に位置する山岳信仰の山
「日光山」から、
太陽の昇る東の方を望み礼拝したとき、左手に見える沢を

「左沢(あてらざわ)」と呼び、
右手の朝日町方面を「右沢(かてらざわ)」と称したというもの。


3.最上川(もがみがわ)の左を流れる
月布川(つきぬのがわ)の左岸に開けた土地であるから、
「左」という字をとったという説。


4.アイヌ語では「ア(支流の)」「テイラ(森林のある低地)」や
「アツテイラ(ニレの森林の低地)」があり、
また「アツテ(絶壁)ラサワ」で
「東岸は絶壁で、西岸は低い」とする考え方。


5.柳田国男氏が考えた、崖や山などに生える木々は、
根元部分が曲がってその後垂直に伸びている。

その曲がった部分が、大工用語で言う「あて」の
部分だそうで、
そのあての形とこの最上川の形が似ているので名付けられたという説。

あてらざわ温泉湯元旅館:左沢の由来

左沢[あてらざわ]の地名の由来 – 大江町観光物産協会HP

「左沢=あてらざわ」の謎 | 株式会社カイノ電器 | オール電化・家電・パソコン・空調工事

及位(のぞき)

住所

山形県最上郡真室川町及位

【由来】

修験道が盛んだった頃、付近の山でも山岳修行が行なわれており、修験者たちは「のぞきの行」といわれる修行を
積んでいた。


「のぞきの行」とは、

「険しい断崖の端から宙づりになり崖の横穴をのぞき込む」

というもので、大変な恐怖との闘いであったようです。

やがてこの「のぞきの行」をして「高い位に及んだ」修験者がいたことから、その位が「及位」と呼ばれるようになった、というのが
由来の定説とされている。

2/5 日本全国、珍駅名さんいらっしゃい! [鉄道] All About

及位 – Wikipedia 


海味(かいしゅう)

住所

山形県西村山郡西川町海味

【由来】諸説あり。

1.アイヌ語の「カイシュツ」は「平坦な丘」という意味があり
海味の山々に似ており、それが転訛し「カイシュウ」となった説

2.考察
海味は江戸時代に最上川舟運で栄えていた頃、
その支流の寒河江川の船着場では「海朱」と言われていた

(当時は船荷を明確にするため、荷物は朱色の刻印が押され、
酒田の海へと続くことから海朱(かいしゅ)と呼ばれていた)。

それが、昭和元年に三山電鉄が開通した時、海味駅の駅員が
「カイシュウ、カイシュウ!」

と乗客に知らせるために語尾を伸ばしたのがいつの間に
定着し、
「カイシュウ」と呼ぶようになったという考察。

ただ、山形には貝少(かいしょう)、皆集(かいしゅう)沢、皆朱(かいしゅ)、海生(かいしょう)と似たような音が多いのと

海味の古老は「昔は海朱、海宿とも書いていた」と語っており、「カイシュウ」という読みが先にあり、海朱などは
当て字の可能性があります。

海味の語源 | シュンポシオン<掲示板> | 364
“海味”ってナント読む??|やまたけパラダイス!

古荒新田(こあらしんでん)

住所

山形県酒田市古荒新田
※現在はひらがなの「こあら」表記も見られます。

【由来】

『廢田を再開発した村』

一旦耕作を止めて荒れ地になった古荒場を、再開発した
新田村である。

大沼 浩『荘内地名辞典』 【こ】
古荒新田:山形県酒田市こあら | バス停まっぷ
こあら(山形県酒田市)

文下(ほうだし)

住所

山形県鶴岡市文下

【由来】不明、ですが、見つけたのを紹介します。

1.弘法大師が赤川上流から母宛に書いて流した手紙が
辿り着いた説。


2.毒酒を飲まされた余目城の城主が、
ここまで逃れてきて遺言の文をしたためた説。

3.帆出しが転訛した説。

※3の考察が個人的に面白かったので紹介します。

「トシマサ」なる箪笥職人に一目惚れした、「おみき」なる女性がいました。

おみきはトシマサに恋文を渡そうと渡し舟に乗りましたが、誤って途中で恋文を川に流してしまったそうです。

そこに、上流から舟が通り掛かり、
おみきは「どうか拾って下さい!」と叫びました。

そのままでは追い付かないと思った船頭は、帆を出して
推進力を上げて、
おみきの落とした恋文を拾ったと
言います。


上記の恋文を拾うために帆を出した場所と言う事で
「帆出し」。


帆出しが訛り「ほうだし」に変化して適当な字(文下)を

宛がい集落名とした、と言う説です。

ちなみに考察したサイト様を読むと、トシマサとおみきは
結ばれなかったみたいです。

文下のケヤキと山の神のケヤキ

昨日のお昼と「文下の地名の伝承」 – 旅館 琴平荘 ~社長の独り言~

鶴岡市

住所

山形県鶴岡市

【由来】

鶴岡市のある庄内地方は、最上川により二分されており、
南に鶴岡、北に酒田の街があります。

慶長8(1603)年、酒田の港に巨大な海亀が這い上がった事を吉事とし、酒田の城を亀ヶ崎城とよぶようになり、これに対応し最上義光大宝寺城を改め、鶴ヶ岡城と
呼ぶようになったようです。

鶴岡の地名は以上のように、鶴と亀の吉事にちなんで
名付けられました。

地名

山形以外の東北地方の難読地名

 

kasibaka.hatenablog.com

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日本の難読地名と由来~秋田編~

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、
説話として
残っているのを紹介しています。

目次の秋田県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では住所では残ってないのや由来は不明で代わりに関連ネタを紹介しています。

 

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秋田県の難読地名と由来


八橋(やばせ)

住所

秋田県秋田市八橋

【由来】諸説あり。

1.平安時代征夷大将軍坂上田村麻呂が放った矢が
たどり着いたという故事から「矢走り」が変化したという説。

2.川に小さな橋が八つ架かっていたからという説。

秋田市裏ガイド(4)橋が7本なのに「八橋」|秋田魁新報電子版

川反町(かわばたまち)

住所

秋田県能代市川反町

【由来】

藩政時代は「川端」だったものが、「川反」に変わった。

理由は旭川の東、武士町から見て「川の反対側」で
あるため「川反」と呼ばれ始めたらしいです。

秋田の歓楽街『川反』!川から反っての川反なのかな?! | yuiwata-archi.net

秋田最強の大繁華街『川反』界隈を歩く | Nostalgic Landscape

塩干田(しおからだ)

住所

秋田県能代市塩干

【由来】

塩干田」は「シオ」は砂鉄、廃砂
( ダム湖の底にたまった土砂)の意味。

「カラ」は干しあがる、堆積するの意味。

「ダ」は場所を指している。

能代地方の製鉄地名について ─ 地名で探る鉄の古代史 ─

狙半内(さるはんない)

住所

秋田県横手市増田町狙半内

【由来】

サルハンナイ(サルパナイ)は、アイヌ語
「沢の上流にある葦原」という意味です。

また、滝ノ下には上流に滝があり、これより上流に家を

作ってはいけないという伝説があり、今も守られています。

横手市上畑・滝ノ下 | ムラのページ | 秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト

部垂町(へたれまち)

住所

秋田県大館市部垂町

【由来】

常陸(現在の茨城県一帯)の佐竹氏に従って秋田入りした際、家臣集団「部垂衆」の居住地を「部垂町」と命名したと伝えられている

大館市と常陸大宮市(旧大宮町)の防災協定 | 床屋さんの独り言 「徒然なるままに」

宇留野義元 – Wikipedia

大 館 歴 ま ち 散 歩

部垂城 埋もれた古城

笹子(じねご)

住所※上笹子と下笹子がある

秋田県由利本荘市鳥海町上笹子

秋田県由利本荘市鳥海町下笹子

【由来】諸説あり。

1.「笹の実」の古い呼び方である
「自然粳(じねんご)」から来ているとの説。

2.「しね・こ」からきており、よじれたような鄙びた
土地の意味。

由利本荘市上笹子 | ムラのページ | 秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト

「鳴子・白子・笹子」の地名由来 : 目からウロコの地名由来

二十六木(とどろき)

住所

秋田県由利本荘市二十六木

【由来】

車馬、流水などの音がとどろくさま。その地。
文字は当て字です。


また、「二十六木」を分解すれば「十十六木」となり
 “とどろき”に行きつきます。

「二十六木」「廿六木」「十々六木」等と書いて「とどろき」と読む地名が各地にあるが、由来が知りたい。ど… | レファレンス協同データベース

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笑内(おかしない)

住所

秋田県北秋田市阿仁笑内

【由来】

アイヌ語の「オ・カシ・ナイ」(川下に小屋のある川)

また、少し表現は違いますが、笑内はオ・カシ・ナイで
「川尻に・仮小屋ある・川」としている。

しかし笑内の集落には、現在これといった大きな沢は見当たらない。

笑内駅 – Wikipedia

阿仁のアイヌ語地名

象潟(きさかた)

住所

秋田県にかほ市象潟町

【由来】

きさ貝(赤貝の古名)がよく捕れた潟から来ている。

「きさかた」が最初に登場するのは『延喜式』 (927年) においてである。
この時の表記は 「蛸方」 である。

その後、8世紀後半ごろと見られる漆紙文書には 「蛸形」 と出ている。
一方、現地調査ではきさ貝は発見されていない。

象潟(きさかた)とは – コトバンク

象潟地名の始まりについて

西馬音内(にしもない)

住所

秋田県雄勝郡羽後町西馬音内

【由来】アイヌ語とされているが定説はない。

古代には読みが「にしまおんない」であったとの説もある。

また「おんない」は扇状地のような地形をさすことばで、

渓谷が開ける地形をさすとする説もある。

秋田県内には「毛馬音内」(けまない)等の地名があり、すべて地形的には合致するといわれている。

にっぽん蕎麦紀行『弥助そば』

難読な地名 » 西馬音内

西馬音内 – Wikipedia 

番外編


馬口労町(ばくろうまち)

住所

馬口労町通り商工振興会

【由来】

馬の売買やあっせんをする馬喰と呼ばれる人々が他藩からもたくさん集まり、数百頭の馬がいたことから。
記録も残っている。


また、秋田県内には読みが同じ「馬喰町」があります。

「馬喰町」ですと全国に読みは少し違いますが、文字が同じのが
全国に何か所かあります。

広報あきたオンライン

馬喰町 – Wikipedia

機織轌ノ目(はたおりそりのめ)

住所

秋田県能代市機織轌ノ目

 【由来】不明:轌を使う地域で地名にも使われるようになった可能性。

過去の難読地名シリーズでも紹介したサイトしか
出て来ませんでした。


秋田県内外の「そり」に関する地名が載っているので、

気になる方は見てください。

 真偽は不明だが、秋田の機織ネタを二つ見つけました。

【由来】

1.米代川の近くに機織という村がある。

秋田城之介が領主のとき、都の方から流れてきた機織りにたけた女性を岸辺に住まわせ絹布を織らせたということから名づけられた土地の名である。

2.ヒヤ潟

国見峠の下に「ヒヤ潟」と呼ばれる小沼がある。

昔、父と娘が山で狩りをしながら里で食べ物に代えて暮らしていた。
娘は機織をしたかったが、肝心の梭(ひー横糸を通す道具)がなかった。

ある日、沼で梭に似た白く光るものを見つけ機を織る。
娘の機織の音は美しかった。

噂を聞いた若者が梭を見せてくれと訪ねて来る。
見せると「俺の角だ!」と龍の姿で沼に消えた。

「私の梭を返して!」と叫びながら娘も沼に飛び込んだ。
それから、この沼のほとりを機に関するものを持って通ると
沼が荒れ、渦が起きた。

梭を嫌がる潟「梭嫌潟」が訛って「ヒヤ潟」となった。
また「機織姫沼」とも言う。

秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム

地名こぼれ話26・「ソリ地名」の数々「橇・轌・反・曽利…」 | 壁紙自然派 – 楽天ブログkasibaka.hatenablog.com

秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム

秋田以外の東北難読地名

 

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日本最高齢のAV男優・女優は80オーバー!徳田重雄さんと小笠原祐子さん。番外編は帝塚真織さん。

 この記事では一人の男優と二人の女優が分かります。

  • 日本最高齢のAV男優は80歳の時に出演した徳田重雄さん!!
  • 日本最高齢のAV女優は81歳の小笠原祐子さん!!
  • (番外編)80歳で引退した元AV女優は帝塚真織さん

 

日本最高齢のAV男優は80歳の時に出演した徳田重雄さん!!

 

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1934年生まれの現在83歳

私が確認できた最後の出演作品は80歳の時の作品までです。

 

本人も過去に「80歳くらいまでやれるんじゃないかな」と語っているので一つの区切りにした可能性があります。

 

デビューのキッカケ

 旅行代理店時代に出張で宿泊したホテルで見た有料AVに興味を持ち、自らメーカーを調べて、FA映像出版にたどり着く。

 

同社に行き、社長兼監督のヘンリー塚本から直接、AVを買うようになった。

 

通いつめるうちに塚本からAVへの出演を提案される。

 

最初は冗談だと思って断っていたが、約2・3年間、熱心に出演交渉され、これを承諾した。

彼が採用された理由は、塚本曰く「非常にスケベな顔だから」

 徳田重男 - Wikipedia  

 

 家族構成

妻・息子と娘が一人ずつ、孫が一人。

 

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